タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

ヘロデの隣りに

ルカによる福音書 三章一九~二〇節〉

ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 

 荒れ野で福音を伝えていたヨハネ、領主ヘロデが住んでいた場所とは物理的にも精神的にも関係のなさそうな荒れ野で神の言葉を語っていたヨハネが、今ここで領主ヘロデと対峙し、領主ヘロデの隣りにいて、領主ヘロデと話をし、論争をしたのです。荒れ野のヨハネは領主ヘロデの心の隣りにいました。ヨハネは領主ヘロデというこの世で身分の高い者の心の隣りにいました。このことは正直容易なことではないでしょう。この世で身分の高い者、または「この世で身分の高い者のみが成功者であると思っている者」の心は容易に凝り固まりやすいのです。なぜならば、彼らは小さい子供の頃から、親に「お前はそんなこともできないのか」と言われ、社会に「お前はこれができなければ人間としての価値がない」「お前は一番でなければいけない」と言われ続け、そして、その他多くの抑圧的な言葉を言われ続けて競争社会、差別社会の中で生きて来たことによって、頭の思考回路が、自分で生み出した考えによるものではなく、この世の社会によって無意識のうちに埋め込まれた考え・常識という幻想によって支配されてしまっているのですから。彼らの人生は辛いものでした。自分の弱さを他者と分かち合うことが赦されずに生きなければいけなかった彼らの人生は非常に悲しく、寂しいものでした。そのような者らの一人としての領主ヘロデの隣りにヨハネはいました。そして彼と対峙しました。神の言葉を預かったヨハネは彼と対話をせずにはおれなかったのです。その対話の延長線上に論争があり、対立が生まれてしまうことが分かっていても、ヨハネはヘロデと対話せざるを得ませんでした。神の言葉を預かったヨハネ、この世において福音を語りながらも苦難に与る一人の人間としてのヨハネは、一人の人間として、ヘロデと同じ命を与えられた一人の生身の人間として、ヘロデを責めなければならないと思ったのかもしれません。ヨハネは、敢えて受け入れることとは真逆のように見える「責める」という行為によって、愛するとは真逆のように見える「赦さない」という選択によって、ヘロデの兄弟になろうとしていたのではないでしょうか。ヨハネは責める時、本当は責めたくないのに悲しみをもって敢えて責めていたと思います。赦さないという選択をするとき、これまでヘロデを縛り付けてきてヘロデの内面を形成してきたヘロデの背後にあるこの世を赦すことができなかったと思います。ヨハネはヘロデの一人の兄弟になろうとしてヘロデを敢えて責め、そして、そのヘロデに牢に閉じ込められました。

私たちは、自分たちの心も固くなっているのに、ヘロデのような心が固くなってしまっている者の隣りに居続けることができるでしょうか。そしてそのような心の固くなった人の心の隣りに足を踏み入れる勇気を、果たして私たちは持っているでしょうか。ヨハネはヘロデの隣りに足を踏み入れ、歩み寄りました。ヨハネは牢に閉じ込められてしまうということは予期していたことでしょう。しかしそのことを予期していても、ヨハネはヘロデの隣りにいたいと思い、ヘロデの隣りに居ようとしました。結果、ヨハネは兄弟になろうとしたヘロデによって牢に閉じ込められ、ヘロデはこれまでの人生で積み重ねてきたことのように、一つの悪事を積み上げてしまいました。しかし、この悪事はヘロデにとってどのような悪事となったでしょうか。ヨハネに対するこの悪事は、ヘロデの心に一つの引っ掛かりを生じさせたかもしれません。その引っ掛かりは、ヘロデの心の片隅に追いやられていた良心をくすぶり、良心を揺り動かし、ヘロデに良心の呵責という名の苛立ちを引き起こしたかもしれません。

人間の人間に対する歩み寄りは、時には勇気を伴い、時にはその勇気の歩み寄りの結果として両者に傷を負わせてしまうかもしれません。しかし、それでも人間は、人間の隣りに居ようとすることによって互いに生かされ、互いに愛し合える可能性を見出し得ます。傷を負うことを恐れず、私たちはヘロデの隣りに、対等な一人の人間として、足を踏み入れていかなければいけないでしょう。焦って行動することはありません。足を踏み入れる時は神が用意してくださるでしょう。そしてその結果傷を負うことになったとしても、神が全ての悔しさを知っていてくださいます。神は新たな質的・量的出会いによって私たちの命を生かし、輝かしてくださるでしょう。