タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

聖霊による洗礼

ルカによる福音書 三章一五~一八節〉

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 

 民衆の多くが「ヨハネこそ待ち望んでいたメシアなのではないか」と思っていたのですが、そこでヨハネはそのことを否定し、更に自分よりもはるかに優れた方が来るということを民衆に伝えます。ヨハネは主を畏れていたので、決して民衆によって祀り上げられることによって「自分こそメシアである」というようなことは言いませんでした。ここにヨハネの謙虚さがあります。本当に神を畏れている者は自分がメシアであるなどとは口が曲がってでも言えないでしょう。自分で、自分の愚かさ・小ささ・弱さ・罪深さをはっきり認識しているが故に、ヨハネは謙虚にならざるを得なかったのではないでしょうか。そして民衆が本当に待ち望んでいる方について語ります。ヨハネは恐らく、何度もこのような語り口で民衆に「わたしよりも優れた方」について話していたのでしょう。

ヨハネは言います、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。ここでまたもや聖霊という言葉が出て来ます。ヨハネ聖霊を知っていました。自らの口で聖霊について民衆に話をしていました。聖霊は目に見えないけれども確実に存在する霊であって、その聖霊と火とをもって「わたしよりも優れた方」は洗礼を授けるとヨハネは話しています。ヨハネは自分の誕生において自分の両親が聖霊に満たされてきたということを知り、聖霊に満たされるとはどのようなことかを鮮明にではないにしろ、おぼろながらにも把握していたのではないでしょうか。このことは、聖霊という存在はキリスト教が成立する前から、そしてイエス・キリストが宣教する前から存在し、おぼろながらにも少数の人々には把握されていた存在であるということが予想されます(しかし、このことは解釈の問題ですが)。ヨハネはきっと次のように思っていたのではないでしょうか。「私は確かに知らず知らずのうちに聖霊によって導かれて、あなたがたに水による洗礼という目に見える形での洗礼を授けた。しかし私にはあなたがたに聖霊、つまり聖なる霊という新たな命を分け与えることはできず、あなたがたを本当には救うことはできないのだ。あなたがたに聖なる霊という新たな命を分け与え、一人一人の心に植えてくださる方は後に来るのであって、私にとってはその方の所有物に触れることすら恐ろしいことであって、私はその方の歩く道路を整備している清掃員のような者に過ぎない」、あまりにもヨハネは謙遜しすぎているのではないかと思われるかもしれませんが、もしかしたら、このようなヨハネの姿は、イエス・キリストを本当に知っている者の一つの思いなのかもしれません。このヨハネの謙遜は、自己卑下でも自己否定でもなく、「わたしよりも優れた方」を世界の救い主としてはっきり認識し公に示そうとしているからこその心境でしょう。ヨハネは後にヘロデ王によって殺されることとなりますが、私は、洗礼者ヨハネは、十二使徒パウロがそれぞれの視点でイエス・キリストを見ていたように、イエス・キリストのことを独自の視点で見ていたではないかと思います。

「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

ここで今度は火についてヨハネは話します。この箇所については多くの見解があるでしょうが、私は「聖霊と火による洗礼」という言葉を「聖霊という消えることのない火による洗礼」と訳したいです。つまり「わたしよりも優れた方」は聖霊という「消えることのない火」を私たちに分け与えることによって、私たちの殻を焼き払ってくださるのです。「わたしよりも優れた方」は自らの手を、自らの足を使って、この世界を掃除し整理してくださる方なのです。ヨハネイエス・キリストの道路を掃除し、イエス・キリストはこの世界を掃除するのです。私たちにとって栄養となる麦はしっかり倉に保存され、不必要な殻は「消えることのない火」である聖霊という新たな命の贈与によって焼き払われるのです。しかし、ここで疑問に思っている人はいないでしょうか。「それならば、なぜ私はイエス・キリストを信じているのに、罪にまみれているのか」と思ってしまうのは少数者でしょうか。この問題はとても難しいことのように思えますが、イエス・キリスト聖霊による洗礼というものは「消えることのない」という意味で継続して授けられるものであって、私たちは水による洗礼を受けてキリスト者になったとしても、聖霊による洗礼はその後も何度も受け続けるものなのです。人生は思ったよりも長く、人それぞれの波があります。その長く険しく多くの出来事が待ち受けている中で、キリスト者はいつも共にいてくださる聖なる霊による自発的創造(強制的ではなく)・解放的革命(抑圧的ではなく)によって何度も力を得ます。

ヨハネの水による洗礼によって、私たちは自分の心に主なる神という存在を置くことになり、歩く道を神の道へと方向転換します。そして、その道を歩む力として何度も聖霊による洗礼を受け、歩みを進めることができるのです。そして、聖霊に満たされている者は、極端に言うならば罪を犯さず、正確にイエス・キリストを信じている状態のとき、その者は聖なる霊による自発的創造・解放的革命の内に置かれています。その者は、無意識であったとしても、罪という抑圧的要素を含む言葉から解放されています。その者は存在という存在が赦されている事実の確信における喜びに満たされていて、神への畏敬の念、背伸びして神様のようになろうとしなくても良いのだという安らぎで満たされており、罪を赦し、罪という言葉を消す神の懐に入れられています。

ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」

ヨハネは、自分の役割の範囲内ではありますが、イエスと同じように福音を告げ知らせた者なのです。福音は初め、〝世間では軽視されやすい荒れ野〟にいるヨハネと民衆に在りました。私たちはこのような環境でこのような役割を果たしたヨハネを軽視してはいけません。民衆は、荒れ野で語られるからこそヨハネの言葉を福音として受け取ったのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストによる「聖霊という消えることのない火による洗礼」を受け続けるためには、この荒れ野のヨハネによる洗礼が欠かせなかったのです。洗礼は印です。印がなくても、神は聖霊を世界に贈り、人々に贈り続けるでしょう。しかし、洗礼という印は、水に濡れて消えてしまうような印ではなく、肉への刻印であり、心への刻印であり、魂への刻印です。刻印には「イエス・キリスト」という文字が刻まれています。「イエス・キリスト」という刻印は、イエスが世界の救い主であると共に〝私自身〟の救い主であり、そのような存在を自分の内に受け入れたという証明となります。その刻印の溝から、新たな命の泉が私たちの意志・体・言葉となって溢れ出すのです。「何を守るよりも、自分の心を守れ。 そこに命の源がある。」(箴言四章二三節)、「あなた自身の井戸から水を汲み あなた自身の泉から湧く水を飲め。 その源は溢れ出て 広場に幾筋もの流れができるであろう。」(箴言五章一五~一六節)「自分の心」「あなた自身の井戸」「あなた自身の泉」に聖霊が宿り、そこから私たちを新たに生かし、自発的・解放的に創造する命の水が湧くのです。