タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

負い目の認識から生まれる新たな関係性

ルカによる福音書 三章一〇~一四節〉

そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 

 「わたしたちはどうすればよいのですか」

多くの人がヨハネに尋ねてきます。悔い改めよと呼びかけるヨハネに対して、彼らは一人一人自分の立場における負い目・罪を感じ取ったのでしょう。ヨハネを通じてなされたこの民への呼びかけに対して何か負い目・罪を感じ取る者はとても感受性に満ちた者であり、自分が救われるために自分の意識を変えることができる者です。牧者の説教とはそのような純粋な感受性を持つ状態へと人々を導き得ます。彼らは牧者の立場に立っているヨハネに「どうすればよいのですか」と尋ね、牧者の立場にあるヨハネは具体的な答えを彼らに提示します。ヨハネは彼らの負い目を知っていた故に具体的な返答をすることができました。ヨハネは彼ら一人一人の立場と心痛を知っていたが故に、彼らに対して率直に答えることができたのです。心痛を知らない者、目の前で悩み苦しんでいる人に共感できない者が語ったところで彼らの心に変化は生じないでしょう。ここでのヨハネと群衆・徴税人・兵士との関係はキリスト教で言う説教する者と説教を聞く者との関係に似ています。ただヨハネが〝荒れ野〟から宣教をしているという点においては違うのですが、神の言葉を宣べ伝える立場に立っているという点においてはキリスト教の神父や牧師の立場に似ているものがあります。牧者は教会員一人一人の心を知っているとき、教会に導かれてくる一人一人の心の負い目・苦しみに共感している故に、説教における神の言葉が天上の理解できないような内容ではなく地上で理解され受け止められ得る言葉となるのです。

 自分の負い目に気づくことができたこの群衆・徴税人・兵士たちには聖なる霊が働いています。自分が法律では裁かれないが事実罪を犯しているということを認識した者は、神の言葉によって生命を得ます。彼らは心の中で「私はなんて罪深い人間なのだろう。私は罪に囚われていて、今後どのような生活をすればよいのか分からない」と思っています。しかし、ヨハネの呼びかけはただただ彼らを意気消沈させ失望させるためのものではなく、彼らに自分の負い目を確実に認識させ、これから具体的にどのような生き方をすればよいのかを提示するものなのです。自分の負い目を感じることのできた者は神の呼びかけによって生き方が変えられ得ます。彼らは自分がいかに罪深いかを知ることによって〝他者と共に生きる〟ことにおいて真剣になります。そして彼らは純粋に「変わりたい」「変わろう」と思い始めるのです。自分の不正に気づいた者は神の呼びかけがあれば自分がこれから成すことができる正にも気づくことができるでしょう。自分は悪人であることに気づいた者・自分がいかに小さい存在であるかに気づいた者は、「こんな私にもできることがあるのか。なんという恵み。私に人を愛することができる力が一欠けらでも神から与えられているということはなんという奇跡か!私は闇の中にいたが、光を放つことができる。」と思うことでしょう。彼らがこのように思うことによって、彼らの失望は希望に変わります。彼らの心それ自身に正があること、彼らの存在自体が神に愛されていることを知ったので、彼らは生きていく上での「神にありのままの全存在を愛されている自分を信じていいのだ」という土台を再構築し、喜びをもって〝他者と共に生きる生活〟へと聖霊の力によって背中を押される形で押し出されていきます。私たち人間は悪人でありながらも悪人ではない要素を心の隅に隠しています。神の言葉は、私たちのありのままの姿を白日の下に晒し、隅に追いやられていた悪人ではない要素を表出させ始めます。私たちは罪人であり小さな存在であるけれども、独りではありません。私たちには同じように「自分には負い目がある」と思っていてくれる仲間がいます。私たち罪人にとって、自分の負い目を認識してくれている者の存在は希望と力の源です。負い目を認識するという弱さの中に、神の聖なる力が生まれる源泉があるのです。ここでのヨハネと群衆・徴税人・兵士との間には、裁きではなく赦しがあり、亀裂ではなく平和があります。私たちは神の言葉において独りではありません。