タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

悔い改めにふさわしい実

ルカによる福音書 三章七~九節〉

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 

 「我々の父はアブラハムだ」

この宣言は、創造主なる神を親とせず被造物であり一人の人間にすぎないアブラハムを親としようとする宣言であり、非常に危険な思想になり得ます。どのような意味で危険なのでしょうか。アブラハムを信仰の父として尊敬することは危険ではないでしょうが、次の点で危険になり得ます。それは、創造主ではなく被造物を崇めるという偶像礼拝に陥りかねないという点においてです。蝮の子なる我々人間は皆この「人間を祀り上げることによる偶像礼拝」に陥る可能性を持っています。創造主なる神は旧約時代にその感情を表してきたように、怒りを表現されます。神は怒っています。社会のこの偶像礼拝に対して酷く怒っています。なぜ神は偶像礼拝に対して怒るのか。それは、偶像礼拝によって、人間が「私たちには神など必要ない。私たちのこの世界は私たちで何とか処理できる。」と思い、罪人を礼拝することで罪人の配下になり、罪の自覚のないままに罪を無意識のうちに犯し続け、最終的には神が造り給うた尊い被造世界を破壊してしまうことに繋がるからです。だれも神の裁きの座から逃れることはできません。悔い改めたとされるキリスト者でさえも自分の知らないうちにこの世の不正の虜になり、この世界を無意識の内に破壊に導こうとする権力者・為政者に盲目的に服従することになり得るからです。しかし、ここで悲しい知らせがあります。それは、この世を無意識の内に破壊に導こうとする当の権力者たちもまた被抑圧者と同様に実は心貧しく、悲しみで満ちていることが多いということです。彼らの心もまた荒廃していることが多いのです。故に、私たち人間は実はみんなが抑圧者であると同時に被抑圧者であり得るのです。いかなる権力、地位、名声を手にしていようとも、それらに囚われてしまっているならば、彼らもまた不正の虜になり、不正によって抑圧されてしまっているということなのです。私たちはいつも被害者であると同時に加害者です。しかし、そのことに気づく故に、「皆が神の下では的外れな者であると同時に、神に憐れまれるべき者なのである」という認識に立つことができるのでないでしょうか。

神が造り給うた自然、大地、動物、空気、水、その他一切の被造物を壊す権威は、私たち人間には本当は与えられておらず、神だけが持つべき権威です。それにもかかわらず、人間は被造物を破壊します。破壊することによって、私たち人間は逆に被造物に破壊されます。良い実を結ばず、破壊の限りを尽くしてしまう全ての人間の根元に、神が作成した放射能・化学物質というような恐怖の〝斧〟が置かれているのです。私たちはこの世界を破壊することによって逆に「切り倒されて火に投げ込まれ」ます。そして、苦しみあえぐ。神が造り給うた世界を冒瀆したが故に、私たち人間は放射能に侵され、化学物質に侵され、軍事兵器に振り回されて、生きていくために必要な食物を自らの手で失い、自らの手で隣人を殺すに至ります。神は怒っています。悲しみをもって怒っています。どうしようもない的外れな人間を見て涙を流しているのです。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

神は的外れな人間を転換させようとします。人間ヨハネを通して悔い改めという転換を勧めるのです。神は私たち全ての罪人を懐に招こうとし、救いに与らせようとし、私たちの住む世界を救おうとされています。幸いなるかな、神はこの世界に救い主イエス・キリストをお与えになりました。そのことによって私たちの側にはいつもイエスがいてくださり、罪人の重荷を担ぎ、共に苦しみに与っていてくださるのです。そのことによって私たちは罪人でありながら、良い実を結むことができる能力を、神から与えられた賜物として一人一人が持つことができているのです。私たち人間には、この世界を救う一つの能力・悔い改めにふさわしい実が神から与えられました。それは、愛することです。隣人に共感する能力であり、この世界を搾取のない、戦争のない、蹂躙のない平和な世界に戻して神にお返ししようという信念です。私たちには希望が与えられています。それは、私たちの一切の罪のために死んでくださったイエス・キリストという希望であり、私たちの隣りにいつもいるために復活なさってくださったイエス・キリストの霊です。イエス・キリストはこの世界に今も認識され得る信仰であり、霊であり、存在です。この世界のただ中で、私たちが住む〝世界〟の苦しみを味わい、罪を犯してしまう私たち人間の弱さと罪悪感を知っていてくださいます。私たちは皮肉にも、私たち自らが犯す罪における苦しみによって悔い改めることが多いようです。そして、そのことで新たに創造されます。私たちはその時、悪い実を結びながらも良い実を結ぶ者へと造り変えられていくのです。神は全ての人間を招き、悔い改めを勧め、良い実を結ぶようになるために新たに創造し、私たちが、私たちの自らの労苦によって生み出した「悔い改めにふさわしい実」によって喜びを得ることができるようにしてくださいます。そして世界に「良い実」が生まれるのです。