タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

主の道

ルカによる福音書 三章四~六節〉

これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、

 その道筋をまっすぐにせよ。

 谷はすべて埋められ、

 山と丘はみな低くされる。

 曲がった道はまっすぐに、

 でこぼこの道は平らになり、

 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

 ここで取り上げられている箇所はイザヤ書四〇章三~五節であり、実際に調べてみると元の文からは少し趣が異なる印象が与えられるでしょうが、ここではルカによる福音書の記者が記載したままの文章から考えてみることとします。恐らくルカによる福音書の記者は、自分の人生を通して、イザヤ書の言葉をこのように感じ取り、私訳したと思われます。(ちなみに元の文は以下の通りです。「呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」(イザヤ書四〇章三~五節))

 ここでは主の道について表現されており、主の道、つまりイエス・キリストが通る道、イエス・キリストが生きていく道はどのような道であるのかということを言おうとし、それは主なる神からの人間への歩み寄りの道であることを意味すると考えることができます。神から人間への歩み寄りの道であると書きましたが、人間から神への歩み寄りの道でもあるのではないかと考える人もいるでしょう。このことはとても難しい問題であり、すぐには答えを出すことはできない問題であり、各人がイエス・キリストを信じて生きていく中で悟っていくことでもあるでしょうが、敢えてここで言うとするならば、主の道とは神から人間への歩み寄りの道でもあり、人間から神への歩み寄りの道でもあるという両面性を備えているということです。そして「まっすぐにせよ。」という命令形で表されていますが、実は神は確実にまっすぐにするのであり、「まっすぐにせよ。」という言葉にはそれほど命令的な要素は含まれていないのであり、命令というよりもむしろ宣言であり約束です。イエス・キリストによる人間の救済への道は、ヨハネによってまっすぐに整えられました。洗礼という悔い改めが示されることで、道が現れたのです。悔い改めの洗礼そのものが道になるのです。洗礼を受けた者の道はまっすぐにされます。本人が「いや、全然まっすぐではなく、むしろ洗礼を受ける前よりも酷い道だ」と思おうが、事実まっすぐなのです。

 「谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。」

このことは、精神的にも社会的にも谷のような所に身を置いている者たちの歩む道の地盤がしっかり整備され、精神的にも社会的にも高慢になりやすい立場の者たちは神の御心に適った正しい位置に引き戻されるということを意味すると捉えることができるのではないでしょうか。谷に身を置いている者の道は、今日の時代で考えても、とても苦しい道でありましょう。精神的にも追いつめられやすく、抑圧されやすく、外にはじき出されやすく、世間から蔑ろにされやすく、その結果、谷という日の当たりにくい暗い隅の場所に住まわざるを得ないという状況です。しかし、谷はすべて埋められるのです。何によって埋められるのでしょうか。それは山と丘が低くされることによってです。山と丘が低くされようとするときに削り取られる土が谷を埋めるのです。つまり、土に含まれていた、土を維持するために使用されていたエネルギー、人間の労働力、精神力、知識、お金などのあらゆるものが谷を埋めるという目的のため、谷に住む人間の尊厳・命を大切にするために神によって使用されるのです。決して山が更に高い山になるために使用されるのでも、丘という社会的中間者がより金銭的な意味における裕福な環境に身を置くために使用されるのでもありません。谷を埋めるという目的のために山や丘の土が使用されるとき、山に住む人、丘に住む人は「幸せであるとは本当はどういうことなのか」ということを考えざるを得ず、山や丘に住んでいるだけでは感じ取れなかったものを感じることができるようになり、いつも心の中で感じざるを得なかった虚しさ、または自分の思考の基盤を成している幻想から解放され、自分たちだけではなく、「隣人」が幸せに暮らすにはどうしたら良いのかを考えるようになります。「神の救いを仰ぎ見る」のは、特定の人間、つまり山に住む人間だけでもなく、丘に住む人間だけでもなく、谷に住む人間だけでもなく、「全ての隣人」、「全ての他者」なのです。隣人が幸せにならなければ、神の救いが実現したことにはならず、神の救いが谷に住む人にも丘に住む人にも山に住む人にももたらされる救いであるということに気づかなければ、神の救いの真実を知ったことにはならないでしょう。

 「曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、」

イエス・キリストの救いは既に完成しています。(完成しているというと、それではなぜまだ人間は苦しみに満ち、世界は混乱に満ちているのかという問いが生じますが、違う表現をすると、〝神からの人間への歩み寄り〟が完成していると言った方が分かりやすいでしょう。)この救いは先ほど言ったように、全ての隣人、全ての他者、更に言えば全ての被造物における救いです。特定の人間のみが幸せになるという考えに固執していると、人間の心は曲がり、世界は歪み、でこぼこの世界となり、どこが右で左で、どこが上で下なのかが分からなくなるのではないかと私は思うのです。人間は罪を犯す生物なので、世界は現に曲がっており、でこぼこしていますが、イエス・キリストの歩み寄りという救いは世界をでこぼこにするその罪人に対して完成しているのです。洗礼者ヨハネはこの救いの完成のための主の道を整えるために、悔い改めの洗礼を行ったのです。

主の道は、人々を「個人のみの幸せ」から解放し、自分も含めた「隣人の幸せ」へと至らせる転換の道となります。悔い改めという転換については前回の黙想でも記しましたが、このような転換をも意味するのです。つまり人間は、自分のみの幸せを考えることから解放され、自分も含めた「隣人」の幸せを考え始めるとき、イエス・キリストがなぜ福音書に記されているような生き方をしたのかが理解できるようになり、イエス・キリストの十字架へと至る生き様、十字架上での死に様、復活という言葉で表される十字架の死からの解放が、この混乱に満ちた時代に対してどのような意味を持つのかを、自分の人生をもって、自分の目に見える現実世界をもって知るようになっていくでしょう。神の人間への歩み寄りの道は洗礼者ヨハネによって整えられ、イエス・キリストの存在によって完成しました。主の道は、人間の思考回路を、「一人」から「隣人」へと変化させる道となるでしょう。