タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

荒れ野から始まる罪の赦しへの転換

ルカによる福音書 三章一~三節〉

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 

エスの幼少期の話が終わり、これから書かれるのは成人したイエスの時期における話です。その話を始めるに当たって、ルカによる福音書の記者は歴史的背景を書き記し、その背景が事実存在する中で、ヨハネが罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことを記しています。つまり、このことは、洗礼者ヨハネの行動はこの世の支配者・権威者の管理下にある地域のただ中で成されていたことを示し、この世という神以外による統治、神以外の権威の最中に、神の言葉というこの世とは真逆の支配・権威を宿した聖なるものが、多数ではなく一人の人間ヨハネに降ったということを示します。俗のただ中に聖が、不正のただ中に正が、抑圧のただ中に解放が、破壊のただ中に創造の言葉が輝きだしたのです。

 ヨハネは不正の世にあって不正とは正反対の神の言葉を語ることになります。その言葉は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える」という形をもって語られることになりました。神の言葉がこの世に降ること、それ自体が既に罪の赦しです。神の言葉がこの世に降ったことそのものが、この世を赦しの内に招こうとする神の意志の表れであって、「赦されない」という状態から「赦されている」という状態に転換させること、そのことに「気づかない」状態から「気づく」状態に造り変えることを意味しています。悔い改めの洗礼を宣べ伝えるとはまさに、この罪の赦しによる、罪そのものと罪から生じる罪悪感からの解放を指しています。ヨハネはこの世の管理下の中で、この社会的情勢の中で、たった一人で、不正から正へと変わること、貧しい人・弱くされている人を踏みつけるこの世の支配から、貧しい人・弱くされている人・罪によって苦しんでいる人、その一人一人を大切にする神の支配へ変わることを宣べ伝えます。しかし、ヨハネの宣べ伝える範囲は、これまで記してきたように、貧しい人・弱くされている人・罪によって苦しんでいる人のみに限定されているものではなく、ヨハネを通して語られる言葉、つまり神の言葉に耳を傾ける人々〝全て〟に及ぶものです。神の言葉は、それに耳を傾ける者・聞こうとする者・理解しようとする者・従おうとする者によって聞かれ、その者たちの存在によって言葉として成立し、その者たちの人生に影響を及ぼし、その者たちの〝肉体〟に成り、結果として、その者たちの〝行為〟になります。これが神の恵みによる聖化なのでしょう。神の恵みによって義とされる彼らは、ありのままの姿で神の言葉を聞こうとし、理解しようとし、従おうとするのです。神の言葉がありのままの姿で生きようとする彼らによって、彼らの肉体に変化したとき、彼らの存在・彼らの人生は、〝神に従うありのままの行為〟となるでしょう。

 罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼は、このとき荒れ野で始まりました。この世の支配者の物で満ちている所から始まったのではなく、この世の支配者の物が何もない所から始まりました。煌びやかな、豪華なもので守られているこの世の支配者・権威者からでも、神が臨在すると言われる幕屋・神殿からでもなく、〝荒れ野〟に居ようとするヨハネから始まりました。罪の赦しのための悔い改め、「赦されない」から「赦されている」への転換、「気づかない」から「気づく」への転換、「神の裁きの座から目を背ける」から「神の裁きの座にて跪く」への転換は、まず、この世において虚しいとされ、どうでも良い場所とされやすい〝荒れ野〟から始まったのです。