タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神の子としての自律性の萌芽

ルカによる福音書 二章四九~五二節〉

すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 

 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

エスは心配する親に向かってこのように言ったのです。これは何という意志表明でしょうか。イエスはどのような気持ちでこの言葉を発したのでしょう。どのような表情で親に話したのでしょう。微笑みをもって言ったのか、真剣な眼差しをもって言ったのか、この文面のみからでは正確には分かりません。少なくともイエスは、十二歳という年齢でありながら、親に対して自己主張・自己の感情表現をすることができる状態にあったと考えられます。十二歳と言えば、今の日本社会で言えば、小学六年生ほどに当たるでしょうか。その年齢で既に親に対して自分の意見を表明することができ、かつ、その自分の主張において確固たる自信・確信を持っていたと思われます。親が理解できないほどの答えを、少年イエスはこのとき既に発することができる精神年齢に達していました。

 二章四一節からイエスの自律性について考えてきましたが、ここでも明らかにイエスが自律的に物事を判断することができるということが鑑みられます。幼少期から始まり、小学生、中学生、更に人によれば高校生・大学生、そして世間的に見て大人と思われる年齢の人の段階ですら、親という存在は絶対的な存在であり得ます。特に幼少期の子供にとって親は神のような存在であり、認識できる範囲内での絶対的権力者であることが多いでしょう。イエスはこの十二歳という段階で、この絶対的な立場にある親を乗り越えています。それは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」という言葉から考慮できることです。つまり、この時イエスにとっての絶対的な存在は、産みの親・育ての親ではなく、主なる、親なる神に変わっていたということです。キリストとして神がこの世に遣わした神の子であるので、生まれながらにしてそのような信仰をイエスは持っていたという可能性はありますが、この十二歳という年齢の時には確実と言っていいほど、イエスは当時のユダヤ教の信仰の対象であった神を絶対的な存在と見なし、更に父、つまり自分の親であると見なしていたのです。このイエスの確信は大きいことです。イエスはここで、自分のアイデンティティの本質が「神の子」であるということに気づいていたのです。神の子であるということ、神様が自分の親であるという思いがイエスの中で完成しつつあったのです。私はこのときのイエスの心の発達した状態を「神の子としての自律性の萌芽」と捉えることとします。これまで見てきたように、恐らくイエスは、両親からも周囲からも「一人の自律した人間」として認められてきました。そして、今ここでイエスは、自分で自分のことを神の子として認識しているということを親に表明したのです。この二章四一節からここまでの場面は、イエスが人間の親という守りから卒業しつつあり、そして神の守りの中に自分の身を置くという将来のイエスの状態を垣間見せています。両親はイエスの言葉の意味を初め理解することはできませんでしたが、母マリアは、イエスの人生を見ることによって、後になって、このときのことに思いを巡らしていたに違いないでしょう。

 イエスは最終的に、迎えに来てくれた両親と一緒に故郷に帰り、自分のアイデンティティを知った状態で、両親に仕える生活を送っていました。「自分は神の子である」というアイデンティティを持っていたにもかかわらず、イエスは両親を愛し、両親に仕えました。自分の〝宣教の時〟、〝キリストとしての時〟がまだ満ちていなかったからでしょう。二章四〇節にも記してあったように、イエスは神と人とに愛されて育ち、〝キリストとしての時〟が満ちるに向かっていったのです。イエスはキリストとして生まれ、キリストとしての自覚を持つに至るための環境にあり、神と人の真実の愛に恵まれた中で成長しました。(この黙想ではそのように捉えることにします。)全てはイエスがキリストとして生涯を送るために、神が用意したことであったのでしょう。いや、もしかしたらイエスは、どんな環境のもとでも――つまり親に虐待される環境にあったとしても――神に与えられた「神の子としての自律性」なる永遠の命の灯を絶やすことなく、幼少期を過ごしていったかもしれません。これでイエスの誕生・幼少についての黙想は終わります。イエスは神の子として生まれ、神の子として預言され、神の子として自ら認識して育ち、神の子として次の段階に移ることになるのです。