タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

イエスと学者たちの関係

ルカによる福音書 二章四六~四八節〉

三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 

 両親は三日も捜して、やっとイエスを見つけました。両親はさぞや心配したでしょう。四八節の母マリアの言葉からもそのことは伺えます。しかしここでは、両親の心境や両親のイエスとの関係よりも、学者たちとイエスとの関係に焦点を当てて考えていってみることにします。

 少年イエスは、エルサレムの人々にとってみれば、ナザレという田舎町出身の者であり、かつ一人の子供に過ぎなかったでしょう。エルサレムはいわゆる都会であり、ユダヤ教の信仰の中心であり、神のいます場所の象徴としての神殿がある場所です。そのような場所、そのような周囲との関係性の中で、イエスは学者たちと話をしていました。それも、学者たちの真ん中に座り、賢い受け答えをしていたのです。このことは恐るべきことではないでしょうか。

 まず第一に、イエスは賢い受け答えを学者相手にしていて、周囲の人々を驚かせるくらいの受け答えをしていたという点が驚くべきことです。イエスはこの十二歳という年齢にして学者の話す内容(恐らく聖書学者や律法学者のような御言葉に精通した学者たちであったでしょうが、ただ「学者」とだけ記してあるので、ここでは敢えて聖書学者や律法学者と決定することはしません。)に精通していたのでしょうか。確かにそうかもしれません。イエスはいわゆる世で言う天才であったのかもしれません。しかし、私はそのことに焦点は当てないことにします。むしろ、学者の話す内容に精通しているか否かという問題よりも、学者というある分野に精通している立場の人たちの話を聞き、その話の内容を理解し、その内容に対して〝応答をする〟ということ、つまり学者たちとの〝コミュニケーションが成立している〟ということ自体が驚くべきことなのです。学者の話す内容に精通しているから、それに関する自分の知識を見せびらかそうというものでもないでしょう。私が想像するに、少年イエスは独自の視点をもって、率直に、無邪気に、学者たちとコミュニケーションを取っていたのではないでしょうか。

 そして第二に驚くべきことは、学者たちがイエスに対して、田舎の子供として見下して接することなく、少年イエスを中心に置いて受け答えをしたという「学者のイエスに対する姿勢」に関する点です。これは〝学者たち〟のすごいところでもあるでしょう。普通なら、相手が子供であったとしても、学者であるというプライドを捨て去ることができずに大人げなく接してしまったりするものではないでしょうか。それも、イエスは親と逸れて三日もエルサレムにいて過ごしていた状態にあったのに、そのような状態にあるイエスを学者たちは見下したり見捨てたりせず、自分たちの輪、自分たちの領域の中に迎え入れたのです。もちろん学者たちがイエスの置かれている状況を知っていたかは定かではありませんが・・・。  

学者たちはもしかしたら、少年イエスという一人の子どもから醸し出される「この子を見下して扱ってはいけない」という雰囲気を感じ取ったのかもしれません。イエスには学者たちにそのように思わせる何かがあったでしょうか、いずれにしろ、学者たちのイエスに対する接し方は貴重です。人との関係の中で、相手がどんな立場に置かれていようと、一人の人間として、更に言えば、神様がこの世に生んだ一人の人間として接し合うということは、人間関係の中でとても貴重なことであり、なかなか目にすることができない光景でしょう。結果的にイエスは学者たちの真ん中に招かれ、コミュニケーションを取るに至っていました。イエスは周囲の学者たちに何を感じさせていたのでしょうか。それはもしかしたら、十二歳という成人になる準備をする段階にある少年イエスが持っている、確かな「自律性」に起因しているものであったのかもしれません。