タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

我が子を捜す両親と神を捜す私たち

ルカによる福音書 二章四一~四五節〉

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

 

 過越祭という祭りは、仮庵祭、五旬祭と並ぶユダヤ教三大祭りの一つであるので、とても大きな祭りだと考えられます。そのような祭りでありますから、大人数がエルサレムに向かい、また大人数がエルサレムから自分の町へ帰って行ったことでしょう。そのような大人数の民の移動の中、両親は少年イエスと逸れてしまいます。ここで一つ不可解なことは、両親が、イエスエルサレムに残っておられたのを知らないで道連れの中にいると思い、一日分もの道のりを行ってしまったという点です。このことは実に不可解なことではないでしょうか。「なぜ両親はまだ少年のイエスをすぐそばに置いていなかったか」、このことに対する答えを今の私は正確に導き出すことはできませんが、次のように考えることができるかもしれません。両親はイエスが道連れの中にいると思っていたと書いてあるので、両親にとって少年イエスが道連れの中、または親類、知人の中にいるという状況は非日常のことではなく通常のことであり、「息子イエスなら道連れの中にいるに違いない」と思ってしまうくらいの普通の状況であったと考えられるということです。イエスはこの十二歳という年齢で、既に両親の信頼を得ていたのではないでしょうか。

もしそうでなければ、イエスを隣りに置かないで一日分の道のりも歩き、イエスエルサレムに残っているということを両親が知らないということは、今で言う育児放棄に相応するものとなってしまうでしょう。しかしこの黙想では、両親は捜しながらエルサレムに引き返すほどイエスの安否を心配していたと推測できるので、両親はイエスを心から愛していたに違いない、ということにしておきます。

 十二歳とはユダヤ教では、宗教共同体の一員に加わるための準備のための歳で、十三歳が成人年齢であるそうです。このことが事実ならば驚かされますが、このような今で言う少年の年齢の内に、宗教共同体に加わるということが意識されると、子供ながらにイエスも何かしら考えざるを得なかったのではないでしょうか。それも、ユダヤ教というものは聖書の創世記から登場する唯一の主なる神を礼拝する宗教です。イエスは少年と言えども、神の子であり、キリストとして生まれたのですから、この時期どのような心境であったのかはこの節だけで正確に判断することはできませんが、このような宗教を有する共同体の一員に加わるということは、「神様とはどのような存在なのか」ということをイエスを初めとした子供に改めて考えさせる機会になり得るでしょう。先ほど、「イエスは既にこの十二歳という年齢で、両親の信頼を得ていたのではないでしょうか。」と書きましたが、もしかしたら既にこの年齢にしてイエスは両親に「一人の自律した人間」として認められていたのではないかと私は推測します。このことについては二章四六~五二節の黙想で考える余地があるので、ここでは掘り下げないことにしますが、両親はこの時、イエスに対して「息子イエスは既に物事に対して自分で適切な判断を下せる状態にある」と思いながらも、やはり「私たち両親にとっては可愛くてどこか危なっかしくて心配になる子供である」という二つの思いを抱いていたかもしれません。

 エルサレム神殿は当時、神のいます神殿とされていました。両親は毎年その神のいます神殿に行きました。しかし今回はどうやら神の子イエスと逸れてしまったようです。それでも両親は神の子イエスを捜すために神のいます神殿、神のいます場所に引き返しました。このことを比喩的に考えてみますと、私たちにも何かしら当てはまる部分があります。つまり、今のキリスト教で神のいます場所と言えば、第一に教会が思い出されるのではないでしょうか。キリスト者は人生の中で神を見失い、再度神を捜し求めるときがあるでしょうが、最終的に、紆余曲折の結果、神を見つける場所は教会である場合が多く、私の経験的なものから考えると、神に対する不信に陥った場合は教会に行くことで不信が解かれることが多いです。教会には心と人生を神に置く者が集まっていますので、両親がイエスを捜すために神のいます場所であるエルサレムに引き返したように、キリスト者は、イエス・キリストを見い出すために教会に行き、礼拝や聖書の学びや祈りの会に出席します。(しかしここでは、話が反れてしまいますし、ルカによる福音書の枠から離れてしまうでしょうから、マタイ二五章三一~四六節については考えないこととします。マタイ二五章三一~四六節もまた、神の子イエスがいますもう一つの場所を、正確に分かりやすく書いていると私は思います。)