タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神は全ての人間に律法を贈与し給う。

ルカによる福音書 二章三九~四〇節〉

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

 二章二四節を通して、イエスの家庭が貧しい状態にあったということを示しました。少なくとも、この黙想ではそのように表しました。親子は貧しい立場にある状態で、主の律法で定められていたことを全て終えて、故郷に帰ったのです。このことは、律法を行うということは社会的立場に左右されないことを示し、更に次のようなことを示すのではないでしょうか。それは「全ての立場の人間は律法を行うことが神から要求されている。」ということです。全ての人間はどんな立場にあろうと、律法を行うことが神によって要求されています。経済的に全く神に仕えることができないように思われる人、精神的に病んでいて心が神を思うことができず自分の殻に閉じこもってしまっている人、現代社会を生きる故で与えられる社会的責務・社会的圧力につぶされてこの世の奴隷のように生きざるを得ない人、律法の存在も知らずにこの世に生まれ過ごしてきた人、その他の全ての立場・全ての状況にある人間に対して、主なる神は律法を行うことを要求するのです。

 これは不公平なことでしょうか。私たちは不公平と思うかもしれません。環境が明らかに違うのにもかかわらず、どうやって全ての人間が律法を行うことができるというのだろうかと、不満を感じずにはいられないのではないでしょうか。しかし、このことは実は不公平なのではなく、実に全くもって公平なのだと私は考えるのです。つまり、神は全ての人間に律法を行うことを要求することによって、全ての人間が律法を行うことを゛可能"にしたのです。経済的に貧しい人は経済的に恵まれている人と同じように律法を行うことができます。精神的に病んでいて神を思うことができない人は、日々神に祈りを捧げている人と同じように律法を行うことができるのです。更に、心がこの世の富に支配されている人が、この世の富に支配されていない人と同じように律法を行うことができるようになり、心が健康な人が、心が病んでいる人にしかできなかった律法を行うことができるようになるということです。そのような道が、天を知り、地を知るイエス・キリストによって切り拓かれたのです。

 律法とは、神が人間に与え給いし約束であって、人間が造り出したものではなく神が造り給うたものであるということは二章二二~二四節の黙想で示しました。故に、全ての人間に対して、神は神が造り給うた律法の遵守を要求します。全ての人間を神は愛している故に、神は愛する人間に律法を要求せざるを得ないのです。要求という言葉は次のように置き換えることができます。つまり「神は全ての人間に律法の遵守を要求する」から「神は全ての人間に律法を贈与する」というように置き換えることができます。神は全ての人間に律法を要求しました。それは人間側からすれば石板や紙に書いてある律法の遵守を意味し、不可能を意味します。しかし神はそのようにはお思いになりません。神は全ての人間に律法を贈るのです。人間の目で見れば、律法は人間の造り出した人間が原因となる律法でありますが、神の目から見れば、律法は神を原因とする律法なのであり、人間が「できる」「できない」と判断できるような類の領域ではないのです。更に言い換えれば、「神は、『全ての人間は律法を神から要求されるに値する存在である』ということを示すために、敢えてどんな立場の人間にも律法の遵守を要求する」ということです。神は、「全ての人間には律法を守る価値がある」と言っています。神は、全ての人間には神の造り出した聖なる律法に関与する権利が与えられていると言っています。そして、神は言うでしょう、「私はあなたがたに神の律法を行うための永遠の命を与える。そして私は、あなたがたが将来必ず律法を行うようになっていることを約束する。律法は、あなたがたの最終的な姿であり、私は初めにその姿を石板に記し、イエス・キリストとしてこの世に刻んだのである。私は初めであり終わりであるのだから、あなたがたに対しても初めに約束を示し、終わりには律法を成している体を与える」と。

 私たち人間には、――マリア、ヨセフ、イエスが主の律法で定められたことをみな終えて故郷の町に帰ったように――律法を神に定められたように行い、神の国という故郷に帰ることが、神によって約束されているのではないでしょうか。神は初めに律法を私たちに示し、終わりには律法を私たちに守らせます。そのことによって、私たちは神の国に帰るのです。マリアとヨセフがイエスと共に故郷に帰ったように、私たちが神の国に帰る際にもイエスは私たちの隣りに居て一緒に帰り道を歩いてくださるでしょう。時には私たちを背負い、私たちのコンパスとなり、私たちを神の国へと導いてくださるでしょう。神の国の扉は、こうして律法を守っている一人一人の人間の手によって、イエスの力を借りたその両手によって開かれることになります。

マリア、ヨセフ、イエスは貧しい状態にありました。しかし、彼らは故郷に帰ることができます。神の国には、貧しい人を隅に追いやらず招き入れ、弱い人を蔑まず尊重し、あらゆる立場にある人間の存在を赦す文化が根付いているからです。私たちはそのような故郷なる神の国に帰ることを心から欲し、神の国の中心にいます私たちの親なる神は私たち人間を心から自分の国に招いているのです。