タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

全てを愛し、一人一人を愛する救い主

ルカによる福音書 二章三一~三三節〉

これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、

あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。

 

 シメオンとイエスは出会い、シメオンは幼子イエスについてマリアとヨセフに語りました。先にシメオンが聖霊に導かれて幼子イエスに出会ったように、ここではもう一つの出会い、シメオンと、マリア、ヨセフとの出会いがありました。マリアとヨセフは、羊飼いたちに続き、シメオンという第三者に出会い、彼から言葉をもらい、幼子イエスに対する預言が与えられます。三五節までがシメオンによって語られた内容ですが、今回はこの第三者の介入という視点に立って、三一~三二節のシメオンの言葉について考えてみます。

 三一~三二節で、シメオンは、「万民」や「異邦人」という言葉を使うことによって「第三者の立場における救い」を強調しているのではないかと思われます。イスラエルという神に選ばれた民のみの救いではなく「〈万民〉のために整えてくださった救い」であり、イスラエルという神の律法が与えられた民のみを照らす光ではなく「〈異邦人〉を照らす啓示の光」ということです。シメオン自身は恐らくイスラエルの民であり、いわゆる選民であったでしょうが、イエス・キリストの誕生においては全くもって第三者の立場であり、神と聖家族マリア、ヨセフ、イエスとの関係においては部外者に等しいのです。しかし、その部外者であるはずのシメオンが神を讃えます。この言葉を発する際、シメオンは、自分が神に選ばれしイスラエルの民でありながら部外者という立場を取り、「私シメオンはイスラエルの民でありながら、あなたがた聖家族と主なる神との直接的な関係においては部外者であり異邦人です。しかし神はそんな部外者の私に対してメシアの降誕という救いを示されました。」という思いを重ねていたのではないでしょうか。シメオンは自分の身をもって、イエス・キリストが異邦人を含む全ての人々を救いに招き入れる方であるということを実感したのです。

 そしてシメオンがその身をもって発したこの言葉はまさしく適切であり、神によって預けられた言葉でした。イエス・キリストの救いは万民、つまり全ての人間に整えられ、用意されます。イエス・キリストが〈全て〉だからです。イエス・キリストはこの世界を支配する主なる神の子である故に、全ての被造物を支配する権威が神によって与えられているのです。イエス・キリストがこの世界に来たということは、〈全て〉の人間が神の国に招かれるという準備が整えられていることを意味し、更にイエスという救い主が、全ての人間、一人一人のそばにいて共に重荷を負ってくださっているということを意味します。「イエス・キリストが〈全て〉だからです」とは、「イエス・キリストは全ての被造物の重荷を負う」ということを意味するのです。

 イエス・キリストは「〝異邦人〟を照らす啓示の光」です。つまりイエスは、異邦人という神の律法が〈与えられていない人々〉を照らす光なのです。なぜ異邦人は照らされるのでしょうか。それは異邦人が照らされる必要のある立場にあるからです。イエス・キリストは、照らされることを必要とする人々を見逃さず、見捨てません。少なくとも、イエス・キリスト御自身は、そう願っておいでではないでしょうか。むしろ神はこのシメオンの言葉をもって、イエス・キリストは特定の限られた人を選ばず、全ての人を主体的に一人一人に寄り添う形で具体的に選び取り救う方であり、イエス・キリストにおいて境界線は存在しないということを表明します。異邦人は当時、罪人の代表とされる存在でありましたが、イエス・キリストにおいては全ての人間が罪人であり、同時に全ての人が救われるに値する存在なのです。

 イエス・キリストを信じない人は、「全ての人が救いの対象であり、私もその一人に入っているということは逆に不愉快なことであり、私はイエス・キリストに救ってもらおうなどとは思わない」と思ったりすることもあるでしょう。しかし、この「全ての人がイエス・キリストに招かれている」という事実は、「全ての人がイエス・キリストを信じなければいけない」ということを意味せず、それとは直結しません。イエス・キリストは御自身の存在を強制せず、押し付ける方ではなく、全くその逆に近い形で、御自身の存在を秘かな、隠されたものとし、気づかれぬ形で信じる者にも信じない者にも寄り添う方であり、敢えて自ら進んで知られるということはないように共に重荷を担う方なのです。イエス・キリストは私たちを本当に愛しておられるので、決して押しつけがましいようなこと、意志を強制し、私たちの意志を無視し蔑ろにするようなことはせず、御自分に対するそのような救い主像は願っておられません。イエス・キリストは私たちを親のように愛し、友のように愛し、恋人のように愛し、大切にしますが、その愛は無償性を帯び、無条件なものであるので、常に私たちのありのままの存在を正確に認識するという形をもって愛し、常に私たちの人生で生じる具体的な苦しみを、私たちにわざわざ気づかれるということはないように、隠れるという形を取って愛するのです。しかしそれでも、イエスは私たち人間に話しかけられることを秘かに期待しているのではないでしょうか。その期待は決して私たち人間にとって押しつけがましい重い期待ではないでしょう。逆に歓喜と感謝とを伴い、私たちが涙をもってイエスに話しかけたくさせるような、そんな温かく柔らかい、吸い寄せられるような期待だと私は思うのです。

 そして、親の愛に子が気づいたときに感じる、言葉では言い表しようのない悔い改めの思い・感謝の思い・進むべき方向性が示される悟りが、主なる神に向かって一人一人の人間に生じます。そのとき人は、幻想ではない真実の愛の存在に気づき、生まれ変わり、第二の生を生き始めます。イエス・キリストは敢えて第二の生を全ての人に同時に与え給いません。なぜならば、全ての人間は違う人間として神に造られたからです。イエス・キリストは一人一人違う形で造られた人間を、一人一人愛しておられるので、それぞれの違った人生を一つ一つ尊重し、全ての人を同時に救うという形は取らず、一人を救い、また一人を救うのです。

こうして、部外者であるシメオンもまた、神にとって部外者ではなくなります。既に本当は、イエス・キリストの前では第三者という部外者は存在し得ません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」(エフェソ二章一四節)と書かれている通り、イエス・キリストにおいて、シメオンと聖家族の間の隔ての壁は既に取り壊されているのです。イエス・キリストは全てを愛し、一人を愛します。イエス・キリストは全員を愛しておられますが、更に、目の前にいる一人一人を愛しておられます。神は独り子イエスを特別に愛しておられますが、他の全ての被造物を一つ一つ特別に、個性的に愛しておられます。二九節にある通り、シメオンは神の救いに与り、「安らかに」この世を去ったことでしょう。