タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神を待ち望み、神に導かれる。

ルカによる福音書 二章二五~三〇節〉

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 

 シメオンは聖霊から「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていました。このお告げはイスラエルが慰められるのを待ち望んでいたシメオンにとってどれほどの慰めであったでしょうか。シメオンは生きる上での微かな希望を、このお告げによって与えられたのではないでしょうか。その希望はシメオンの人生において大いなる支えの杖になったことでしょう。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいる際の彼の心境はいかなるものであったのか。彼は本当に神の慰めを待ち望んでいたでしょう。いつの時代でも、この世界というものはあまりにも残酷で悲しみに包まれているものです。シメオンもまた、そのような当時の世界に大きな悲しみを覚え、神の慰めを心から待ち望んでいたのではないでしょうか。

 「待ち望む」ということは、その言葉の通り、何かを待望すること、何かに対して希望を抱くことであり、そのことが、その者の心に、その者の生きようとする意志を生み出すという自発的な心の在り様を存在させるでしょう。シメオンは唯一の主なる神を待ち望みます。シメオンが神を待ち望むということは、彼が「神のみが真の希望である」ということを知っていることが前提にあります。しかし、その「知っている」という状態は、恐らく、聖なる霊の働きによるものです。聖霊なる神は既に神を待ち望む者と共に生きています。待ち望む者と共にいます聖霊なる神御自身が父なる神を待ち望むのです。ここで書かれている「聖霊が彼にとどまっていた」には、そのような意味が含まれているのではないかと私は考えます。

 しかし悲しきかな。何を待ち望むかで人間の人生は大きく異なった方向に傾いて行ってしまうものです。待ち望むことはその者の心に確かに希望を与えますが、待ち望んだ結果、絶望や悲しみ、裏切りが待っているということも世の常であり、それらは人を死に至らしめ得ます。待ち望み続け、願い続け、それでもその希望を実現することのできないことの何と悲しいことでしょう。何と酷いことでしょう。しかし、神に希望を置く者はそれでも神を待ち望むのです。神が、そのような悲しみに包まれた世界のただ中に、共に居てくださるからです。神に希望を置く者は、ただ地に伏して神に祈りを捧げ続けるだけということはしません。勿論彼らの中にはその「祈り続ける」ということのみを役割として神から与えられた者も事実存在するでしょうが、その他の者は、聖なる〝霊〟に導かれて出会うべき人に出会っていき、自らの身体を動かしていきます。神に希望を置く者における出会いは、聖霊による出会いです。その出会いがその者の人生を動かします。その出会いはその者の意志を動かし、その者の歩む方向を示し、神の義と神の国のために具体的に進み出させる力の源となります。

 待ち望むということは、「ただ待つ続ける」という受動的行為とは違います。待ち望むとは、自分に与えられた賜物を存分に使って、神の義と神の国を、そしてその歩みの中で見出されるであろう真実を求め続けるという自発的行為なのです。その者の生き様は、実に生き生きとしています。箴言一三章一二節「待ち続けるだけでは心が病む。 かなえられた望みは命の木。」とありますが、その者は待ち続けるのではなく、待ち望むのであり、その者の姿はまるで命の木でありましょう。神の恵みに根を張り、神によって与えられる出会いによって、その命の木は人間の望みとしてかなえられ、この悲しみの世界の中心で佇み、この世界の意志によって振り回されるのではなく、命の木の根にある神の恵みによって自立的・自律的に立つのです。この命の木は神に希望を置く者にとって、結果であり、終着点であり、神による契約であり、〈いずれその者はそのような姿になるであろう〉という神の約束です。私たちがいかに多くの過ちを犯し、神に背き、神を忘れようとも、神は「この命の木という約束は成就される。それが、わたしがあなたがたと結んだ永遠の契約なのだから」と言い、「わたしはあなたを愛している」と、一人一人のありのままの罪を持った私たちに語りかけます。