タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神の愛への応答としての律法

ルカによる福音書 二章二二~二四節〉

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 

 マリアとヨセフはイエスを主なる神に献げるために、主のいます所の象徴としてのエルサレムの神殿に行きました。主の律法に従うためです。しかしマリアとヨセフは代々伝わって来た、いわゆる形式的な慣習化された律法のみに従ったのでしょうか。聖書を読むと、確かに当時のユダヤの民の間では律法に書かれていることが当然のように淡々と、慣習として、風習として、行われていた可能性が高いと私は思わされます。その一つ一つの仕来りに神への忠実な思いを込めていた民もいたかもしれません。しかし、その民一人一人の心にはもしかしたら神への感謝・畏敬の念はそれほど芽生えておらず、むしろ「周囲の人々が伝統として行ってきたことだから」という理由で、その慣習化された律法に臨んでいたところも多かったのではないでしょうか。もちろん当時のユダヤ人の状況は現代を生きる私たちにも当てはまる所が少なからずあるでしょうから、ユダヤ人を裁くことは私たちには赦されていないでしょう。ここで私は律法とはそもそも何なのかということを考えざるを得ないのです。律法をどう捉えるかということです。律法は慣習的行為なのか、それとも信仰の結果としての行為なのか、ということです。律法の慣習化とは、その律法が定められた理由が忘れられてしまい、人々がただただその律法を伝統的儀式としてのみ捉えてしまっている状態を意味します。つまり主なる神によって与えられた生ける命の律法が、人間によって受け継がれてきた死んだ伝統的行為へと変更されているのです。本来律法とは、神が人間に与えた一方的な恵みの御言葉であり、人間が人間のために造り出した、慣習化される文章ではありません。本質的な意味での律法は慣習化され得ず、人間的慣れが介在するものではないのです。

 それではまず、ここで取り上げられている律法の一つに注目してみることにしましょう。

「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」

この律法は出エジプト記一三章一~一六節に記されているものです。一~一六節全てをここで引用するわけにはいきませんが、一六節に、この律法にはどのような意味があるかが端的に書かれています。その意味とは、一六節後半「主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」というものです。つまりここで取り上げられている律法には、神がイスラエルの民をエジプトから導き救ってくださったという意味が込められていると考えられます。律法が存在する理由には、常に救い主で在られる主なる神が介在しているのです。よって、律法は慣習的行為には本来なり得ず、人間を導き救い給うた神への信仰の結果として表現される神への応答的行為・神への感謝と畏敬の語りかけであり、その律法が行われる度に神の愛、神の導き、神の救いが思い出されるものなのではないでしょうか。

 さて、最初に「マリアとヨセフは代々伝わって来た、いわゆる形式的な慣習化された律法のみに従ったのでしょうか。」という問いを発しました。答えは否です。「律法のみ」に従うという表現自体が誤りです。なぜならば、律法は律法のみでは存在できず、常に律法は神と共に在るのであり、神から生じ、神が創造したものだからです。故にマリアとヨセフはヨハネの誕生、イエスの誕生において神から与えられた出来事を経験しているので、イエスを主なる神に献げる際、彼らは律法に従ったのではなく、律法と共にいます主なる神に従ったと捉えることができると私は考えるのです。

 最後に、もう一つの律法について思いを巡らして終わりとしましょう。

「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」

この律法はレビ記一二章に詳しく書かれてあります。全てを書くと長くなりますので、その中の八節だけを見てみます。八節前半「なお産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、・・・」とあります。つまり、マリアとヨセフは経済的に貧しい立場に置かれていたと推測できます。私はここで、彼らが貧しかったから神に選ばれたということを――事実そうであったとしても――強調したいわけではありませんし、神への信仰というものは社会的立場によって消滅し得る類のものではなく、全ての立場の人々に神への信仰は神から贈与され得ると考えています。しかし、貧しい立場の人々、社会の縮図の中の底辺に属している人々の見える世界は少なくとも私が見ている世界よりもこの世界の現実を表現しており、彼ら貧しき者は、人間が造り出した社会の問題を一挙に引き受けている立場にあるのではないかという考えが、いつも私の思考・心を動かし、私のキリスト者としての尊厳または誇りを否むのです。マリアとヨセフは貧しかった。これが現実です。その〝貧しい〟マリアとヨセフの間にイエス・キリストが誕生したのもまた事実でありましょう。――少なくとも、この黙想ではそのように解釈しておきます。――彼らはこのような社会的立場の中で、イエスを主なる神に献げに行ったのです。

 イエス・キリストは初め、天の国で神と共にいました。次に天という〝上〟から降り、人間世界という〝下〟の世界に降り、更にその世界の――貧しい状況という意味での――〝下〟で誕生されました。そして、イエスは〝下〟の〝下〟に住む者であるマリアとヨセフと共に、神が導き給うてきたイスラエルの中で誕生した証として、再び主なる神に献げるという行為をもって神に応答・直接的報告をするために、神がいます所とされるエルサレムの神殿のもとへ赴くのです。