タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

具体的他者を通じての福音

ルカによる福音書 二章一七~二一節〉

その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 

 羊飼いたちは、自分たちの身に起こったこと、つまり天使が直接自分たちに示されたことをその場にいる人々に話しました。これは洗礼を受けた者が皆の前で行う証しのようなものかもしれません。羊飼いたちはこのとき、良き知らせを人々に伝えたのです。神はこのように、誰かを通じて、〝自分以外〟の誰かを通じて、人間に知らせたい福音を知らせます。この時は羊飼いという具体的に目に見える他者、それも寄留者という立場の者を通じて、福音が伝えられました。〝自分以外〟の他者を通じて福音が知らされることは、神のご計画を達成するための手段として適切なのでしょうか。神はなぜ全ての人に同時に福音を語り給わないのでしょうか。なぜ全ての人に天使を送り、神の言葉を預けようとしないのでしょうか。それは、神を信じる者が御言葉の奥義を聞き、神を信じない者が御言葉の奥義を聞かないという単純明快な一線を示すためではないかと私は考えるのです。一見差別的なものに感じさせるこの事は、実は差別とは逆の受容であり、また、「神を信じる者は救われる」というこの世界で愚かな判断とされるものを知恵ある判断に変える事実です。この事実は、神が〈神を信じる者には永遠の命を〝確実に〟与え、この世に福音を〝確実に〟知らせる〉という印であり、神を信じない者も、この世界で神を信じる者と共に生きているという現実の中で、神の栄光を表す担い手とされているということです。

この世界には、〝福音を知らせる立場の者〟と〝福音を知らされる立場の者〟という形で、〝神を信じる者〟と〝神を信じない者〟が存在し、この両者が共に生きる中において、神の力がこの世界のただ中に働かれます。また、洗礼を受けたキリスト者が全て〝福音を知らせる者〟であるというわけではなく、キリスト者もまた常に両者の立場を取ってこの世界のただ中で生き、現実のただ中で神の恵みに共に与るのです。この時、人間の目には差別は映りません。福音が本当に伝わるとき、伝えられる側には差別・抑圧を感じさせません。両者の中に住む聖霊なる解放の神が共鳴するからです。また、神は、「神はなぜ全ての人に同時に語り給わないのだろうか」というこの世界でありがちな問いを無にし、この世で生まれた思考回路が無・愚であることを示すためにも、〝自分以外〟の具体的に目に見える他者という身体的にも精神的にも限界がある存在を通して一つずつ、一人一人に福音を宣べ伝えるという手段を取ります。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(第一コリント一章二〇~二一節)しかし、神はこの世で生まれた思考回路を容赦なく叩きのめすのではなく、それを尊重して承認するという形をもって神の知恵を浸透させるのです。

 「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」

 実際にこの通りです。つまり、聞く者全てが「心に納める」のではなく、「不思議に」思う者もいるのです。不思議に思う者は礼拝の説教を不思議に思い、証しをする人の言葉を不思議に思います。彼らは今、無関心ではなく、不思議に思うという形で関心を持っているのです。「不思議」は人の心に妙な引っ掛かりを起こします。それは嫌悪する感覚の類ではなく、むしろ、なんだか純粋な幼子のような受容的態度を表出させます。具体的他者による宣教という手段によって、聞く者に「不思議」という種が蒔かれます。その種の全てが芽を出すわけではありませんが、芽を出すものもあり、神はそのような自然の原理の喜びをここに表し、神は、人間が畑に種を蒔いて、「この芽は出なかったが、この芽は出た」というような種に対する愛おしさ・大らかな自由な喜びを持って、宣教の業を行います。神は全ての人に幾度も幾度も種を蒔き続け、成長して花を咲かせ、実をつけるようになることを心待ちにしています。私たちは神の御心によって、関心を抱かない者から「不思議に」思う者へと変わり、「不思議に」思う者から「心に納め、思い巡らす」者へと変わります。そして知らされたその知らせが本当であったことを知ったとき、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあるように、私たちは神を賛美し、神もまた、私たちが賛美するのを見て喜ぶのです。私たちは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった」ということを自分の身をもって、自分の人生をもって知っていくのです。

 福音とは良き知らせです。近所のおばさんから「あのね、今日あそこでこんな素晴らしいことがあったの。」と知らされるような自然な形で福音は伝えられ得るものです。福音は大いなる神の良き知らせであるが故に、私たちはその知らせをとても巨大なもの・厳かなもの・凝り固まったものとして捉えてしまうときがときどきありますが、福音は私たちの身の回りで起きる素朴で自然な、すっと心に入ってくる温もりのある知らせでもあり得るのです。それは日々私たちの心を癒し、私たちを励まし、私たちの心を自由にし、生きる力を取り戻させる知らせです。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」、マリアとヨセフはこれまでの出来事を噛みしめ、受け入れ、心に静かに納め、疑いなく、未来への願いをもって、その子に、「胎内に宿る前に天使から示された名」であるイエスという名を付けたのです。