タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

イエス・キリストを探し当てる。

ルカによる福音書 二章一五~一六節〉

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

 

天使たちが天に去っていき、羊飼いという人間と天使という天の存在との交わりのひとときが終わります。羊飼いたちは心から喜び、話し合い、神様が知らせてくださった大いなる喜びを確認しようと思い立ち、急いで乳飲み子イエス・キリストを探し当てます。羊飼いたちは〝急いで〟イエス・キリストを探し当てようとし、事実探し当てました。私たちも一緒ではないでしょうか。聖霊によって無意識のうちに救い主イエスの存在が示されたならば、私たちは自分たちでも意識しないままに、〝夢中になって〟その救い主の存在を確認しようと試みるのではないでしょうか。私たちは求めます。「神様、この世を救ってくださるイエス・キリストとは、一体どのような方なのでしょう」と、無意識の中で祈り求め始めます。これはまるで、礼拝に通い始まったばかりの人の心中のようです。礼拝に通い始まったばかりの人は、礼拝を通してイエスの存在が少しずつ、または人によっては突然示されます。この人は無意識のうちに求め続けます。この「無意識に求め続ける」ということこそが聖霊の働きによるものなのでしょう。そして神が備えた「時」が近づくのです。イエスとはどのような方なのかが示されるという時が近づき、その人の「時」が満ち、自然と神に手を引かれるかのごとく、その人は洗礼を受ける決意をするに至ります。

 洗礼を受ける動機は、実際は人によって異なり、イエスに対する認識も人それぞれであったりします。しかし、共通点があるとすれば恐らく、「イエスが私のキリストで在り給うた」という認識ではないでしょうか。そして、洗礼式にて、聖霊の働きと共に自発的な人間の自由意志が重なって、罪深き人間が・的外れな選択がほとんどである人間が、聖霊の助けを受けながらも自らの意志で洗礼を受けるという「的を得た」選択をします。この神の意志と人間の意志が重なるというあり得ない現象の成就によって、神と人間は契約を交わします。神は、「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」(イザヤ書四九章一六節)という約束を人間に示し、人間は、「あなたはわたしの主。 あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(詩編一六編二節)という想いを神に捧げます。神はこれまでも(洗礼を受ける前も)この人を導き助けてきましたが、今ここで新たに、明らかに、公的な場で、「わたしはあなたを愛している」という無償の恵みを約束し、表明します。洗礼は、人間の神に対する信仰の表明でもありますが、神が人間を無償に愛しているという〝神による神の証し〟でもあり、洗礼は人間から神への一方的な儀式ではなく、双方向からなる握手なのです。洗礼の儀式が執り行われる度に、先に洗礼を受けていた教会員は神の無償の愛を再確認し、「イエスが、一人の尊き兄弟姉妹の手を握り、その存在を背負い、苦しい時も悲しい時も、共に歩んで来てくださっていた」ということを改めて認識するのです。

 私たちは日々神様に支えられ、助けられ、時には背負われて生きています。この世があまりにもむごく辛く苦しいものであるので、神様は私たちに「わたしはあなたを本当に愛している」ということを伝えたがっています。神様は、洗礼という〈イエス・キリストを探し当てる恵み〉を通して、神の無償の愛の存在を、神の国が実在するということを、私たちのこれからのこの世界での人生で示そうとされます。洗礼を通して、実在したが認識できなかった神の無償の愛・恵みが、認識できるイエス・キリストの愛・恵みへと少しずつ変わっていくのです。