タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

天使たちの賛美

ルカによる福音書 二章一三~一四節〉

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」

 

 天の大軍が天使のもとに集まり、神を賛美します。この世を救う真のキリスト・神に油注がれた者がこの世に誕生したからです。天の大軍は全て神のものです。天使というのは、神の喜びの象徴であり、神が喜ぶことを純粋に共に喜ぶ存在ではないでしょうか。天使たちは、この世界が始まってこの方、これほど喜んだことはないに違いないし、神が大いに喜んでいることも知っていたでしょう。地獄の炎が燃え盛るこの世に、清らかな雫たる天の国を体現する者イエス・キリストが降誕したのですから。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」

 この言葉は一つ一つ突き詰めて考えるような、そのような類の言葉ではないでしょう。この言葉は喜びの表現以外の何物でもないのです。私がこれまでしてきたように、人はときどき一つ一つの言葉を取り上げ、その言葉について詮索し、「この表現はこの人が言うべき言葉、言って良い言葉ではないのではないか」というような意地の悪い批判をしたがるときがあります。それは大いに結構であり、そのことで何かしらの発見と気づきが与えられ、神を賛美するきっかけになる場合もあるでしょう。しかし、ここでの天使たちの言葉は溢れんばかりの〝想いの叫び〟なのです。ただただ神を賛美する叫びなのです。人にもこのような時があるでしょう。つまり、「神様、このような私を救ってくださったことを私は心から感謝し、あなたを賛美せずにはおれません」という場合に発せられる様々な言葉です。その言葉の表現の仕方は十人十色であり、言葉にもならない場合も多いでしょう。しかし、そのようなことを考慮した上で、ここでは敢えて天使たちの一つ一つの言葉について思いを巡らしていってみたいと思います。

 「いと高きところには栄光、神にあれ」

 「いと高きところ」、それは、この世の権力という〈全てのものが自分の思い通りに進めることができる力を持つことができるという意味の最高位〉を表す表現ではなく、神が既に神の無償の愛をもってこの世の全てを包み込むことができる立場に座っていらっしゃるという事実を表現していると私は考えます。神の人間に対する無償の愛を表すその座には既に栄光があり、神のみがその座に座ることができるので、神に〝既に〟栄光が在ります。しかし、天使たちは救い主イエスの誕生によって感極まっているが故に、そのことを改めて強調しているのです。「いと高きところ」には神がいます。そこには神しかいません。神しかいることができません。どんなにこの世の権力者が足掻いたところで、その座に座ることができるのは神のみです。なぜならば、この世の権力は愛ではなく、神の愛が権力なのであり、神の愛は神なのですから。「いと高きところ」には、神の無償の愛という最も尊い想いの表現のみが存在できるのであり、神の無償の愛の表現しか存在し得ないのです。

 「地には平和、御心に適う人にあれ。」

 この叫びには、「御心に適う人」に平和があってほしいという天使たちの願いが込められています。なぜならば、この世では「御心に適う人」はあまりにもこの世の力に踏みにじられやすいからです。だからこそ、「その人たちにこそ平和がありますように」と天使たちは強調して言います。更に続けると、主なる神の血が通った平和は「御心に適う人」にしか存在しません。御心に適わない人の心には、主なる神の平和がなく、競争があり、蹂躙があり、弱肉強食の論理が侵食しています。御心に適わない人は、人を愛せない故に幸せになれません。まるで「御心に適う人」が複数いるかのように書いていますが、「御心に適う人」は、本来的には主イエスただ御一人です。彼が〝御心に適わない人〟そして〝御心に適わないと思われている人〟を救いにこの世に来たのです。主イエス・キリストのみが、この世の権力によって構築された「まがい物の安心」ではない真実の平和を携えてこの世に誕生し、その真実の平和をこの世の一人一人に贈るのです。こうして彼らの心は主の平和の種子を受け取り、地上には、歪んだ不透明な安心という死の花ではなく、主の真実の透き通った平和という生の花が咲くのです。

 いと高きところには栄光が神に在ります。地には平和が御心に適う人に在ります。既に、現に今、〝在る〟のです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ書一一章一節)、この時天使たちは、「在る」ということを確信しています。天使たちは、目には見えないけれども確実に〝在る〟神の栄光・キリストの平和を確認しており、讃美の歌を大きな声で心の底から合唱するのです。