タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

読書→文章化→祈り

読書をすると、文章が書きたくなる。少しの文を読み、自分の頭に浮かんだ抽象的な構想を文面化することで、抽象から具体的なものへと変えて行くのだ。

 

この作業が実に面白い。衝動によってあらゆる文面、主に内面の考察が行われていく。実は祈りさえも行われていく。祈れないときは、祈れるように持っていけば良い。人それぞれ祈りへのアプローチは異なるだろうが、私にとっての祈りへのアプローチへの第一歩は読書である。第二歩に現状の思いの文章化である。自分の思いを文章に表していくにつれて、神への言葉が綴られていく。例えば次のように。。。

 

 神様、既に私は今、文章化が少し終わりましたので、あなたへの祈りへと入ります。神様と唱え呼ばせていただくことのなんと有難いことであるでしょうか。私は仕事がとても辛いですが、辛い仕事もおそらくあと1ヶ月で終わります。どうか残りの仕事をお守りください。できれば、最後くらい職場の人と仲良く働きたいと思いますので、手伝いのほどよろしくお願い致します。

 私はあまりにも非行動派な人間であり、頭の中だけで処理してしまうような人間でありますので、実際はほとんど成果が出ません。私の行動と言ってみれば、文章を作ることくらいです。30歳にもなって何の取り柄もないなんて、危険ですよね。あなたは一体この私をどのように導きたかったのでしょうか。自由意志に任せるというのは、正直酷な話だということくらい、あなたには理解できているはずです。自由意志と言いますが、そもそも何が私の心からの意志なのかさえ分からないのですから、それをもって歩めと言われても困るのです。

 しかし、キリスト教的にいうならば、あなたは私を完璧に愛しているらしい。完璧に愛しているのならば、私がもう地獄的な苦しみを負わなくていいような道を備えてくれるはずですし、御心に従う道さえも用意してくださっているはずです。私にそのことを信じさせてください。あなたが私にとっての正しい導き手・真の羊飼いであることをお知らせください。礼拝へとお導きください。他者との新しい交わりへと導いてください。

 悲痛なほどのこの虚しさと絶望感から脱出させてください。そして、あなたの無償の愛が私の心に注がれますように。アーメン

 

 結局、このように思いがづらづらと文章化され、溢れるように殴り書きが行われる。

 

 《読書で始まり、文章化を経て、祈りで終わる生活》を毎日送ることができたら、

  私は幸せ者だ。