タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

罪に関して

さて、今回は罪に焦点を当てることとする。

 

私は罪を持っているのかという問いに対する答えは

もちろんイエスである。

しかし、どのような罪を持っているのかという問いに明確に答えることができるだろうか。もし明確に答えることができるならば、私は罪から解放されるであろう。何故ならば、自分の罪を明確にはっきりと認識した者は罪を犯さないやり方をもすぐさま知ることになるからである。

 

私は明確に答えることができないがゆえに、罪を犯し続ける。罪を犯しているとも知らずに私は罪を犯し続ける。私は思う、「もし自分を罪に定めたならば、他者をも罪に定めてしまう冷酷な人間になってしまうのではないか」と。この思考がこの何年もの間、私を支配し続けており、故に私は他者への甘い優しさによって、いや、他者への甘い憂いによって、心配によって、加罰感によって、この思考を手放すことができずにいる。

 

はっきり罪とはこうこうこういうものだと私を納得させる思想、文面があるのならば、私は解放されるかもしれない。しかし、私は聖書を何度読んでも他者への裁きに聞こえる全ての断罪的文面を納得できずにいる。聖書にこう書いてあるから信じるなどという盲信は、もう今の私にはできない。

 

私は一度、宗教からの脱出を経験しているが故に、そう簡単には盲目的に信じるなどということはできなくなっている。ひねくれていると言えばそうなのかも知れないが、よく言えば批判的精神が身についたとでも言えようか。

 

私は罪人であるが、どのような種類の罪人で具体的にどんな罪を犯しているのかを知らない。もしカルヴァンの言うように、神に背を向けている状態が罪であったとしても、その「背を向けている」とはどう言う状態なのかを知らない。これまで私は自分自身でも他者からでも言われてきた、「あなたはキリスト者じゃない。本当に神を信じてはいない。イエスをキリストとしていない」と。果たして、これは私に対する正確な批判となり得るのか。答えはそれこそ神のみぞ知るのであるが、私はキリスト教が好きである。聖書が好きであるし、神学書も信仰書も随分好きだ。私は短期間に内面的にキリスト教に関して成長しすぎたのだ。この過剰な成長、さらに言うならば過剰な適応が問題なのである。頭の中でまさに光の速度で考えが発展し、異常なまでの飲み込みの早さをキリスト教において見せてしまった。1つの考え方から10以上のことを想像し、文章化してしまうこの異常なまでの能力を私は嫌う。過剰適応という意味での適応障害なのだ。

 

しかし、今、1つの罪が思い出された。それは、蹂躙という罪である。人間をもののように扱ったという過去の記憶であ理、現在の思考である。これは明らかに罪ではないか!この罪から私は逃げるべきではないのではないか。私は告白する。私はセックスにおいて一人の女性を物のように扱い、現在想像において更にその蹂躙の罪の虜になっている。なんというおぞましいことであろう。なんと醜い人間であろう。私は醜い。神に赦されたとしても、その女性に許されたことを知っているとしても、私自身はこの罪を許さない。この罪はこの世から抹殺されるべきだ。私は殺されるべきではない。しかし、私の持っている罪は、この世界から私の手によって殺されるべきなのだ。

 

これが私の使命なのかも知れない。この蹂躙・陵辱というなんとも愚かしい罪を私はこの世界から抹殺しなさいと神に命じられているのかも知れない。この罪を行動に移したのは私であることに変わりはないが、この罪を私に産み付けたのは、私だけのせいではない。社会的な問題である。男性の問題である。男性はこの点において非常に罪深い。セックス以外の、女性を物扱いする行為の一切も全て、罪深い!これは断定されるべきものである。

 

神に背を向けることは罪深い。それはなぜか。神に背を向けることで、自分を傷つけ、他者を傷つけ、殺すからである。神から背を向けると、人は優しさを失う。ここで言っておくべき「神」とは、無宗教的に表現するならば、「尊厳」と訳されても良いものであろう。この尊厳が蔑ろにされることを私にとってはイエス・キリストが踏みつけられるのと同様のことを意味する。

 

罪は高く住まい、

神は低く住まう。

 

高い所の空気は薄い。