タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

〝誕生の時〟が満ちる。

ルカによる福音書 二章四~七節〉

ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

 ヨセフはまだ結婚していない婚約状態のマリアと共にダビデの町ベツレヘムに向かいます。住民登録をするためです。まだ結婚していないにもかかわらず、ヨセフはマリアと一緒に故郷に行きました。それはマリアと結婚する覚悟が決まっていたからだと思われます。ダビデの血筋の者たちが皆同じ場所に集まるのですから、ヨセフはその内的な意志をそこで公に表明したのです。

 しかし、ヨセフ、マリア、そしてイエスには、泊まる場所が与えられませんでした。婚約状態であるというのに子が生まれてしまうという当時ではあり得ないこと、非常識極まりないことが起こったが故に、彼らには泊まる場所が与えられなく、周りから侮蔑の目が注がれたという捉え方ができます。それでも、そのような軽蔑される状況であったとしても、いや、そういう状況にあったからというべきでしょうか、命の月は満ちていたのです。月が満ちる、つまり満月。月が最も明るい時。一人の赤子が生まれることに対して、月が満ちるという日本語の表現を当てたのは、とても適切であるように思われます。産みの苦しみとして母親には苦しみが伴いますが、子の誕生によってその家庭には最も明るい光が与えられ、その光が家族と共に在ることになります。この時のイエスの生まれる状況は、一般的な家庭での子の誕生とは異なり、今のような設備の整った病院・施設で生まれるのでも、どこかの家の中で生まれるのでもありませんでしたが、確かにマリアとヨセフには月光なるイエスが共に在りました。

 私は、ここの聖書箇所だけから推測して、「イエスがとても惨めな所で生まれたのだから哀れだった」とか、「とても貧しい環境の中でイエス様は生まれて来られたから可哀想だ」と決めて、誰かの同情を誘うようなこと、貧しさを美化するようなことをして良いとは思いませんし、ヨセフ、マリア、イエスもそれは望んでいらっしゃらないでしょう。なぜなら、子の誕生はどんな環境であったとしても、多くの場合親にとっては大いなる喜びであるでしょうから・・・。荒野のような環境で生まれようとも、設備の整った病院の中で生まれようとも、心が無条件の愛で満ちているならば、子が生まれることは親にとっては言葉では言い表せない心からの喜びに満ちた出来事であり、貧しいということを美化することは、ある種の偶像礼拝に繋がり得ることであるでしょうから。

貧しいこと、特に、貧しくさせられていることは本来とても苦しいことではないでしょうか。何かに抑圧されて不可抗力の中で貧しく〝させられている〟ことは苦しいことであって、誰が進んでその被抑圧状態に身を置こうとするでしょうか。少なくとも私は、神の御心に添うのでなければ、決して抑圧された貧しさの中に自ら身を置こうとはしないでしょう。しかし人は本来この世界で生きている限り、何かしらによって抑圧されて生きているものだと思うのです。その「自分を抑圧している対象」――恐らく、その対象は自分と周りの環境との複雑な関係性の中にあり、内的なものでもあり、目に見える具体的で外的な不正である場合もあるでしょう。――を明確にすることによって、私たちの目は開け、現実の景色が変化していくこともあるでしょう。

 この住民登録は、私にダビデの人口調査を思い出させます。ダビデの人口調査は神の〝裁き〟が関わっていましたが、今回のこの住民登録では、神は、〝裁き〟ではなくイエス・キリストをこの世に誕生させるという〝恵み〟をもって、この世への愛を示されました。時は神のものであり、神のみが神の御計画の時を知っている。今、その時が満ちたのです。満月のごとくこの世界を照らす光・神の子イエスが誕生するという時が今満ちたのです。