タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

宗教と私

宗教によって対立してしまう心理は

私自身の中にもあるのだろう。

 

キリスト者だから、無宗教だから、仏教だから、神道だから・・・

そういう理由で、私は誰かを傷つけてはいやしないか。

そう考えた時、誰を傷つけているのかを知る。

 

答えは自分自身である。

自分の心を狭くし、世界を見る目を狭めているのだ。

誰も分かってくれないなら、分かってくれる人が出てくるまで探し続ければいいではないか。しかし、探す前から諦めてどこにも行かないなら、自分を偏見という名の奴隷に貶めていることとなる。

 

人は確かに皆孤独であろう。しかし、孤独とは寂しさを感じるためにあるのではなく、自分自身の思いを深めるためにあるのだ。人との交わりは寂しさを紛らわすためにあるのではなく、自分自身の視野を広げるためにあるのだ。

 

このことを忘れるから、私はいつまで経っても成長せず、ここから脱け出せないでいるのではないか。

 

キリスト者であるとき、私は自分の思いを深め、確かめる。

他者と交わるとき、私は自分自身の視野を広げる。

 

それでも、自分自身の中にある「居場所の差異」を感じるならば、

そこは本当に私の居場所ではないのかもしれない。