タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

ユダヤの民の信仰

ルカによる福音書 二章一~三節〉

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

 

 ローマの皇帝から全領土における住民登録の命令が出されました。この時代、この領土において、ローマ帝国はまさに最高権力を保持しており、住民登録は一種の権力の証明と言えましょう。皇帝の命令一つで、住民は皆旅を余儀なくされるという状況です。貧しい者も富む者も関係なく、様々な理由で移動が難しい者の状況に関係なく、皇帝の命令一つで住民の大規模な移動が決定されます。まさに、当時、ローマ皇帝はこの世においてとてつもなく大きな権力を所持していたと推測できます。ユダヤ以外の属州の住民が皇帝の命令に素直に従ったかは定かではありませんが、皇帝には否応なく服従せざるを得ないし、恐らく盲目的に従うという選択しかなかったでしょう。

 しかし、ユダヤの民はそうではないはずでした。ユダヤの民の主はローマ皇帝ではないからです。ユダヤの民。それは神に選ばれた民です。創世記から始まる神の民です。彼らユダヤの民の神は、ローマ皇帝ではなく、ヤコブ、イサク、アブラハムが礼拝した唯一の生ける神、世界の創造主、イスラエルの民をエジプトの圧政から救い出した主です。ユダヤの民はこの世界の創造主なる神にのみ服従し、この生ける神のみを主とし、決してローマ皇帝を主とはしません。それにもかかわらず、彼らはこの命令には従わざるを得ませんでした。彼らユダヤの民は、屈辱と悔しさと共に皇帝の命令に従いますが、彼らの信仰は皇帝でさえも奪うことはできません。彼らの信仰は唯一の主なる神だけのもの、神だけが所有できるものであるからです。彼らの信仰はこの世の如何なるものにも奪われることはありません。神の愛、神の真実、神の希望が彼らを捕らえている故に、彼らの信仰は奪われないのです。

 ユダヤの民の信仰は、「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル書三章一七~一八節)という信仰なのです。ユダヤの民は、他の住民たちとは違い、この「そうでなくても」という信仰によって、本来ローマ皇帝による住民登録に対して盲目的に服従するということはないはずでした。しかし悲しきかな、ユダヤの民は、属州という立場であるせいで、具体的な目に見える「自分たちの国」を、少しの風で消えてしまいそうな微かな希望の火をもって待望していたと同時に、現実はローマの大きすぎる権力によって抑えつけられていました。それ故、彼らはもしかしたら、この「そうでなくても」という信仰を見失い、自己憐憫の中に埋没し、皇帝の命令に従わざるを得なかったのではないでしょうか。これは悲しみと失意の状況です。しかし、彼らユダヤの民の魂・信仰は、決して根こそぎ皇帝に奪われることなどはなく、からし種一粒ほどになっても、「確かに私たちはこの世の権力の下にあり、事実踏みにじられているし、私たちの心は、失意、屈辱、悲しみに囚われているかもしれない。しかしそれでも、私たちは主なる神のみを主とする。このことに変わりはない。」という信仰の核が消滅することはなかったでしょう。