タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

ザカリアの預言

ルカによる福音書 一章六七~八〇節〉

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

主はその民を訪れて解放し、

我らのために救いの角を、

ダビデの家から起こされた。

昔から聖なる預言者たちの口を通して

語られたとおりに。

それは、我らの敵、

すべて我らを憎む者の手からの救い。

主は我らの先祖を憐れみ、

その聖なる契約を覚えていてくださる。

これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。

こうして我らは、

敵の手から救われ、

恐れなく主に仕える、

生涯、主の御前に清く正しく。

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。

主に先立って行き、その道を整え、

主の民に罪の赦しによる救いを

知らせるからである。

これは我らの神の憐れみの心による。

この憐れみによって、

高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

我らの歩みを平和の道に導く。」

 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人人の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 

 これは、ザカリアの預言の言葉、つまり神から預けられた言葉・・・。聖霊に満たされたザカリアはヨハネの誕生という奇跡において、まさに〝神に満たされて〟言葉を発しました。この言葉は、救いの預言です。ヨハネが「主の道を整える」という役割を果たし、その道をイエス・キリストが歩み、生ける全ての人間に救いをもたらす、そういう預言!この預言の言葉は誰に対して語られているのかを考えたとき、この言葉は私たち一人一人に語られていると考えても良いのではないでしょうか。(しかし、この考えは安価な恵みかもしれません・・・。)洗礼者ヨハネは、私たち一人一人にイエスが近づきやすくする役目を果たすため、水による洗礼という形をとって道を整えました。洗礼は、頑なで、冷たく、無償の愛の光を確信しづらい第一にして幻の生の終わりの印であり、柔らかで、温もりのある、決して揺れ動かない神の無償の愛の光が差し込むのが見える、第二にして真実の喜びと悲しみの伴った現実の生の始まりの印であり、そして、イエスが私たち一人一人の心の隣りに来て、「これからは、私イエスが、あなたたちと共に生きる」という印になるのです。(しかし、ここで誤解しないでいただきたいのは、「洗礼を受けていない人の人生には無償の愛はなく、温もりも現実の生もない」とか「洗礼を受けなければ、神の無償の愛に与ることができない」というものではないということです。神はいつも私たち全ての人間の苦しみに寄り添って居給う。洗礼は、私たちから神への「これまでの人生を導き守ってきてくださりありがとうございました。これからは低みを生きたイエス・キリストへと向きを変えて、低みにいますイエス・キリストの霊と共に、あなたを信じて生きていくことを公的に表明します。」という感謝の宣言であり、一つの節目となり給う。洗礼を受けることによって、私たちは何度も、現実に存在する無償の愛を意識的に経験し、その経験を積み重ねさせてもらえる。聖霊よ、(低みにおける霊よ、)降りませ。そして、降って真の洗礼を示し給え。

 「主はその民を訪れて解放し」とあるように、私たちは解放されます。私たちは何から解放されるのでしょうか。その解放は、主イエス・キリストの愛に与った一人一人にのみ知られ得る隠された真実であります。しかし、「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」とあるように、私たちは「敵」から救われ、「敵」から解放されるのです。それは、私たちを苦しめていたあらゆる敵です。その敵は罪と呼ばれる目に見えない自らの心の中に存在する虚しさ・罪悪感・自己憐憫・執着心の類かもしれませんし、具体的なこの世の権力者・圧政者・抑圧者という個人、またはパターナリズムのような社会のシステムそのものかもしれません。

 神の言葉は常に私たち一人一人に語りかけられています。それは、神が、聖書に触れ・聖書を聞き・聖書を読む人たちを、人生の苦しみの果てに教会を訪れる人たちを、聖書を読むこともできず教会に行くこともできない苦しみのただ中にいる人たちを、そして更に全ての人間――「全ての人間」というこの憤怒やるかたない矛盾の恵み!こんな恵みが在って良いのでしょうか。しかし、悲しきかな、それは事実在り給う・・・。――を愛しているからです。神は「敵」よりも強い。神は私たち一人一人の確実な「味方」であり給う。神は私たちを確実に、救いによる解放へと導き給う。そして解放された私たちは神の助けを拠り所として次のように心に誓うのです、「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」と。これは、自由の翼を得た者が天空を駆け巡るときの喜びの爆発の言葉。

「主の民は罪の赦しによる救いを知らせる」のも「我らの歩みを平和の道に導く」のもヨハネの役割ですが、「これは我らの神の憐れみの心による。」とあるように、それは神の憐れみ・愛によるものであり、神の子なるイエス・キリストの愛によって、私たちキリスト者イエス・キリストの愛・人生に与る者)もまた、ヨハネの役割を担っていると考えることはできないでしょうか。役割を担うということは、この世的には役割に対する責任が要求されますが、私たちにとって役割を担うことは、私たちが「神のものになる」ということであり、責任を神と共に担うことです。その時、そこにはこの世界で意味されている責任という重荷の言葉は消滅するでしょう。私たちは、本当は初めから「神のもの」でありますが、私たちはそのことを忘れてしまいました。イエス・キリストが私たちにそのことを思い出させてくださり、私たちは神の国の一員、「神のもの」であることを思い出す(re-member)のです。

 「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

神は本当に、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」ということを御心の内に入れておられる。そして神は、彼らを本当の現実のただ中での平和の道に、自由の道に、導こうとされる。神は「暗闇と死の陰に座している者たち」を何にも代えがたく愛しておられる。彼らは、罪と呼ばれる、心が引き裂かれ自ら死を望んでしまいたくなるような状態にする地獄の炎の中にいるかもしれません。または、この世の圧政によって、飢えに苦しみ、物理的な死と隣り合わせの毎日を送り、時には生きていくために盗みなどの罪を犯してしまう状況の中にいるかもしれません。彼らは、苦しんでいる者であり、悲しんでいる者であり、心貧しい者であり、経済的に貧しい者であり、誰かの助けを心から必要としている者でしょう。神は彼らを見捨てたくない。神は、彼らを見捨てたくなく、主イエスの平和の中に招きたいのです。その平和は彼らの魂を休ませ、彼らの心に、幻想ではない真実な安らぎを与えます。彼らの心の中から、見えない命の水が湧き、彼らは生きる力を得るのです。そして更に、主の平和は主の正義を掲げます。主の正義はこの世の苦しみに寄り添います。寄り添うからこそ、神は、神が造り給うた被造物の全てを使って――ここではもはや、キリスト者と非キリスト者の区別は消滅していて、神に利用されるのではないでしょうか。――戦争で苦しんでいる者を、日々の過剰な労働に苦しんでいる者を、目に見える病気・目に見えない病気で苦しんでいる者を、全ての苦しんでいる者を、助け、彼らに協力し、救おうと決意し行動することを欲しているのです。

 これで一章の黙想は終わりです。ザカリアの預言は、二章で書かれているイエス・キリストの降誕によって成就します。私たちはその時を既に通過したと同時に、これからもいつも待ち続けます。私たちは、既に起こった主イエスの生と死と復活から真理を学び、今起こりし復活の主イエスの助けによって今日を生き、これから何度も生起していく主イエスによる再臨の可視状態を永遠の希望の光として、神の恵みに与り、神の愛に心からの感謝と喜びを覚え、目を開いて、時には強く雄々しく、時には自らの弱さを実感しながら、命を輝かして、今日を生き、明日に向かいます。