always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

マリアの賛歌

ルカによる福音書 一章四六~五六節〉

そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 

 マリア(を代表とする神を信じる者)は神を讃美します。全身全霊をもって彼女は神を讃美します。神の奇跡の御業が、その時その瞬間に事実起こっていたのですから、彼女は神を讃美せざるを得ない心境にあったのです。このとき、マリアには、「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」と言える権利が与えられたのです。マリアは知っていました。この神の選びが、まさしく〝神の〟選びであることを。〝人間の〟選び、つまり人間側の行いによる選びではなく、神による一方的な選びであるということを。「知っていた」というような、頭で考え捉えられるものというよりもむしろ、自らの存在をかけた感情的・理性的実感であると同時に、聖霊の働きによる聖なる霊感とも言えましょう。マリアを代表とするイスラエルの民は、自らの存在という全身全霊をかけて、この「マリアの賛歌」のように実感せざるを得ないような歩み・歴史をこれまで送って来たのではないでしょうか。この「マリアの賛歌」は、毎日一語一句間違えずに形式的に唱える文言のような言葉ではなく、神の奇跡の実在に対する溢れんばかりの魂からの色鮮やかな、しかし同時に、切実な叫びなのです。讃美とはそもそもそのようなものではないでしょうか。つまり、讃美とは、〈人間が作り出したと錯覚している幻想なる偶像〉から生まれるものではなく、「全ての被造物、空、大地、海、動植物は、神の御業によって造り出された恵みである」という気づきによって、そして、神の御手の中に自分の身を置くことによって、〝自然と〟自発的に溢れ出るように生まれる言葉なのではないかということです。神の御手の中に自分の身を置くとは、神の恵みの中に自分が既に入っていたということに気づくことから生じる感謝を表現している状態でしょう。
 「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」
マリアは自分が星々の間の暗闇の中にいることを知っていて、自分の力ではどうしてもその暗闇から脱け出すことができないことも知っていたのでしょう。それ故の、この言葉なのです。しかし、神はそのようなマリアに目を留めます。神は、星々の間の暗闇、山々の間の谷間の隅の中からでも、マリアを、そしてイスラエルの民を探し出すことができる御方なのです。
〈オバデヤ書二~四節〉
見よ、私はお前を
諸国のうちで最も小さいものとする。
お前は大いに侮られる。
お前は自分の傲慢な心に欺かれている。
岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け
『誰がわたしを地に引きずり降ろせるか』と
心に思っている。
たとえ、お前が鷲のように高く昇り
星の間に巣を作っても
わたしは、そこからお前を引き降ろすと
主は言われる。
傲慢なる者に対してこの御言葉が実現されるならば、自らのことを「主のはしため」と言うマリアを神は見つけず祝福されないということがありましょうか。まさに、「神が選んだ」としか言い様がないことなのです。「その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。」、ここでマリアは確信しています。神の憐れみが限りなく確実に「主を畏れる者」に及ぶということを。この確信は大きい!人間にとって、主を畏れる者に神の憐れみが本当に在る、または実際に神に憐れまれているということを確信することは本当に大きな気づきであり、深い慰めとなるでしょう。この気づきは神の御名が尊いのと同様に尊いことです。神の選びは人間を確信に至らせます。その確信は、まるで新しい井戸を発見し開拓した喜びと共に、そこから湧き出る水のごとく、溢れ出るような讃美の思いへと変わっていく・・・。
 「主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、・飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。」
ここでマリアは、なんと具体的なことを言っているのでしょうか。むしろ、このような具体的過ぎる内容をマリアが言った可能性があるということ自体が驚きです。ルカによる福音書の記者がいた当時のユダヤ社会は、このような〝代表としてのマリア〟の言葉・〝マリアの賛歌〟を必要とするほど困窮し、虐げられていたのでしょうか。なぜ〝代表としてのマリア〟はこのような言葉を発するに至ったのか、私は考えざるを得ません。現代社会でも、この言葉は非常に必要とされている励ましの言葉になり得るでしょう。マクロな範囲でもミクロな範囲でも、実際に搾取され、抑圧され、物理的な飢え・精神的な飢えを経験している人々は、恵まれた私には気づきにくいだけで、実際はこの世の中に非常に多くいるのでしょうから。――自分がこの世界に抑圧されている存在であることに気づくことは幸いなるかな。全ての人間は実は被抑圧状態にあり、そのことに気づくか気づかないかによって悔い改めによる方向転換が、具体的な自らの人生における現実になるかどうかが決まるでしょう。そして、何に抑圧されているかを明確に知る者は幸いなるかな。その者は何に抵抗すれば良いかを見出すことができ、幻想ではなく真実の新たな喜びと真実の新たな悲しみに与ることができるでしょう。――「わたしたちの先祖におっしゃったとおり」とあるように、旧約の時代、イスラエルの民には、何度も何度も、貧しい者、飢えている者、寄留者、孤児、寡婦というような小さくされた者、低みを生きる者を大切にするようにと主は言われて来ました。(出エジプト記二二章二〇~二六節、申命記一四章二八~二九節、詩編一一三編五~八節、イザヤ書二六章五~六節・五八章六~七節と一〇節、上げればきりがありません。)その旧約の御言葉たちが、まさにマリアの胎に集い、イエス・キリストという目に見える肉の形に造り変わって姿を現わそうとしているのです。神はイエス・キリストの存在によって僕イスラエルを再度受け入れ給う。マリアは願いを込めて最後に言います。その旧約の時代から語り継がれて来た御言葉が「アブラハムとその子孫に対してとこしえに」ありますように、と。
 マリアは、神への讃美の思いに満たされ、エリサベトという尊い信仰の姉妹との時間を過ごし、自分の家に帰って行きました。まるで、歴史上最初の〝イエス・キリストを中心とした信徒の交わり〟を終えて、この世に派遣されるかのように。