always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

良き知らせの分かち合い

ルカによる福音書 一章三九~四五節〉

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 

 マリアがエリサベトに会いに行き、彼らは出会いました。マリアが胎に主イエス・キリストを携えるという形で彼らは出会いました。そこには、確実にマリアの胎にいるという身体的形をとって、主イエス・キリストが共存共生しています。エリサベトの胎内の子、つまりヨハネは踊り、エリサベトは聖霊に満たされ、そして、ここに居たマリア、エリサベト、ヨハネの三者は、主イエス・キリストと、具体的に同じ時を共有しました。三者は共に、主が生まれることを心から喜び、その喜びを分かち合っています。私たちが想像する以上に、この出来事、つまり三者の喜びの分かち合いというものは、通常では考えられないものであったでしょう。そこには主イエス・キリストがいて、エリサベトの口を通してイエスが「主」であることが語られているのですから。イエスが「主」であるということは、当時の社会では容認されないことであったでしょうが、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言」いました、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と。
マリアが急いでエリサベトに会いに行ったように、私たちもまた、子が生まれるということを通して与えられる、言葉では言い表せないほどの喜び、そして神への感謝を、他の人々と共有しようとします。子が生まれるという喜びは、個人で占有したいほどの清い喜びでしょうが、個人では所有しきれないほどの大いなる喜びである故に、個人から溢れ出て「他の人々と分かち合われる」という、他の人との新たな低みにおける出会いへと導く性質を持っているのではないでしょうか。マリアが神の子イエス・キリストを宿すという出来事は、現代社会を生きる私たちの生活には一致しない出来事でありますが、私たちが神を信じているならば、私たちの間に生まれる子が、神から授けられた尊い神の子のように感じられるでしょうし、事実、神が与え給うた・創造し給うたという意味で神の子でありましょう。子が生まれるという出来事は、神が私たちに神の子イエス・キリストを一方的に与えたということの比喩でもあり、神がこの世を愛していることの印でもあります。なので、大袈裟かもしれませんが、子が生まれるという出来事は、神の姿を見るごとく尊く聖なる出来事なのだと私は思います。しかし、現実はその聖なる子の命が人間社会に住み着く悪魔によって奪われるという自体が起こっているのです。幼子は殉教者になりやすいのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 エリサベトはここでは、ただただ自分たちの身に起こった奇跡に関してマリアと喜び分かち合おうという気持ちでこの言葉を発したのかもしれませんが、この言葉自体には深い喜びに満ちた悟りのようなものが含まれているのではないでしょうか。物理的な飢え、精神的な飢えの在る今の世の中で(いつの世でもそうでありましょうが)、神様が聖書を通じて語ってくださる、
① 聖なる公同の教会・・・イエス・キリストの生と死と復活における聖なる(低みの)福音を受け継ぎ、かつ、公にその福音を探し求め、実現しようとする共同体
② 聖徒の交わり・・・神の子の資格を受けた者が神の御許で互いの聖霊(低みにおける霊)を分かち合うこと
③ 罪の赦し・・・罪(高み)の奴隷からの脱出と、罪(高み)の責めからの解放、つまり、ありのままで存在が赦されているということ
④ 身体のよみがえり・・・神を信仰する者、讃美する者、この世界に平和を造り出す者、低みを認識する者へと具体的に造り変えられ、人生に対する認識が変化すること
⑤ 永遠の生命・・・この世の具体的な苦しみと権力による抑圧から自由になることによる聖霊なる生命、無償に愛された者としての新たな生命
というような福音を信じること、そして、それらのことが具体的に「実現する」と信じることは、なかなか難しいことなのかもしれません。しかし、だからこそのこの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」に重みと深みが加わるのではないでしょうか。「必ず実現する」であろう福音、そして現に実現されている福音を信じることができる者のなんと心安らかなことでしょう。なんと希望に満ちていることでしょう。福音を信じる者は、事実「幸い」なのです。その者の心には、ほっとした温かく柔らかな霊が満ちます。この世のただ中、つまり、不正なる行為に満ちた現実のただ中で、自分を偽ることによってしか生きることができないこの世界のただ中で、「主がおっしゃったこと」、つまり神の言葉・福音を信じる者は、偽る必要のない幸いを感じることでしょう。