always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神を畏れる者に語る「赦し」の予言

ルカによる福音書 一章三〇~三三節〉

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

 

 一三節でザカリアに言ったように、天使ガブリエルはまたもここで、「恐れることはない」と言います。「恐れることはない」、この言葉は神から人間に語られる言葉です。神はなぜ罪深い人間に敢えて「恐れることはない」などと言うのでしょうか。そのように言ってしまえば、人間は驕り高ぶり、かえって罪を重ねていくように思えます。それでも神は人間に言います、「恐れることはない」と。ザカリアとマリアの共通点は、既に彼らは神を畏れていた者であったということでしょう。神を畏敬することを自らの人生で表現している者にとって、これは大きな励ましの言葉であり、傲慢さを引き出すものではなく神に頭を垂れる謙遜な心を引き出すものであり、生きる自信を持つことに繋がる言葉となるでしょう。そもそも神は神を畏れない者――無意識のうちに神の存在という畏れる対象を知っている者は別として――に対して、天使を通して「恐れることはない」という言葉を語りかけることすらないでしょう。神がその者にいくら話しかけても、その者は神の言葉よりも自分の言葉を第一に考えるからです。というよりも、自分の言葉を第一に考えなければ生きていくことができなかった人生を彼は送って来ざるを得ませんでした。彼の心は、神の言葉が疼きながら、それを隠そうとすることで、神の言葉が粛々と唱える無償の愛に基づかない、歯がゆい自己肯定をせざるを得ません。しかし、彼はその時点においては幸福を感じていますし、事実幸福です。
私たちはキリスト者であろうとそうでなかろうと、常に「畏れる」という性質と「畏れない」という性質を内面に保持しています。キリスト者は「彼ら」であり、その逆も然りです。しかし敢えて言うならば、ここにイエス・キリストを知る者の特権があります。本当にイエス・キリストを知っている者は神を知ります。神を知った者は、罪を犯したとしても、罪を犯しているとしても、心から神が消えることはありません。彼は、救いの神、赦しの神、恵みの神、そして、見捨てない神、親友のように、親のように、伴侶のように共にいてくださる神を忘れません。いや、仮に忘れたとしても、神はその者と共にいまし給う。その者の生には、それほどの価値があります。そして更に、神は、本当は神を畏れない者さえも神の国に招いていており、彼らの生も同様に尊い価値があると私たちに語りかけるのです。これは当然のことであり、かつ全ての人間にとって特別なことです。
そのイエス・キリスト、つまりインマヌエル、神我らと共にいます、という名の神が、永遠に私たちの世界を支配してくださいます。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」、このことはなんと慰め深いことでしょうか。搾取、差別、蹂躙、殺人、姦淫、盗み、偽証、その他、あらゆる罪、律法に反する事柄で溢れているこの世界を、神の子、無償の愛の所有者の子、イエス・キリストが統治なさり、支配なさるのです。罪の赦し、存在の赦しが、イエス・キリストによって体現されるのです。この天使のマリアに対する告知は、イエス・キリストによる赦しの体現についての予言なのでしょう。


一途に生きる者に現れる神の全能性

ルカによる福音書 一章三四~三八節〉
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言うことは私には当然のことのように思えるのです。男の人を知らないのに、どうして子が宿るなどということが起こり得るのでしょうか。このように考えると、男の人を知っている人にとっても、女の人に子が宿るということは、本当に奇跡に満ちたことのように感じられます。そして、新たな生の誕生が、いかに人間の心の根幹を打つものであり、いかに愛と真実に満ちている出来事であるかが伺えます。それはまさに、人間に、「本当に生きるとは何か」を考えさせる出来事の一つとなり得るのでしょう。
 「神にできないことは何一つない。」という天使の言葉。このことは偉大過ぎるものでしょう。私たち人間にとって、神の全能性は偉大過ぎます。人間にとって神の全能性は何を意味するのでしょうか。神が私たちの願いを全て叶えてくださるという意味で神は全能なのでしょうか。そういう考えもあるかもしれません。しかし、神の全能性は、神の人間に対する〝一方的な恵み〟の中に現れます。人間が神の全能性を求めることによって神が全能なのではなく、神は人間に求められる前から〝既に〟全能なのです。この世の虚しい喜び・人間の自己中心的な喜び・人間の自分自身を偽ることによる喜び・人を踏みつけることによって生じる喜びのために神が全能なのではなく、この世のただ中で現実と向き合って生きる者・現実のただ中に居られる神を畏れる者にとって、神は全能なのではないでしょうか。これは綺麗ごとでしょうか。私にはそうは思えません。神はやはりこの世界を救いへと導く尊い方です。
人間的全能性が神ではないでしょう。神〝は〟全能なのではなく、神〝が〟(人間の知を越えて)全能なのでしょう。人間は神に全能性という価値を付与できないと私は思います。既に神は神御自身で御自分が神、全能者であることを知っているのであり、神は、人間が「人間が考え得る全能性」を神に付与しようとする前から既にイエス・キリストの十字架の死における赦し、この世的敗北において全能であり、何でもできる方ですが何でもする訳ではない方です。マリアにイエス・キリストが宿るというこの出来事はまさにその、(人間の知を越えた)神のみが所有し神のみが認識できる全能性による一方的な恵みの御業なのではないでしょうか。
 神による一方的なイエス・キリストをマリアに宿すという御業は、人間側からすれば恐ろしいこと、起こり得ないことが起こるという恐怖を引き起こすものでしょう。しかし、マリアは最終的には、その御業を受け止め、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言いました。なぜこのようなことが言えたのでしょうか。男の人を知らないのに子が宿るということによって、周りからの様々な良くない話を耳にするであろうに、マリアはその周りの声に翻弄されて打ちひしがれることなく――本当は少しは後に色々と考え込んで打ちひしがれたかもしれませんが――その場で、その天使との会話の中で受け止めました。神はマリアがそのような人間であることを熟知していたのでしょう。マリアは、何故かは知りませんが、自分を「主のはしため」と呼びました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」、この言葉から、マリアの〈自分の思いではなく神の御心に従う忠実さ、一途な思い〉が伝わって来ます。この言葉は、人間的な自己卑下や人間的な謙虚さ(媚びへつらうという形での偶像礼拝)によるものではなく、本当に、主なる神の偉大さ・大いなることを心の底から実感して知っていたから発せられた言葉なのでしょう。本当にマリアという人は、生き方と言葉に偽りがない人のように感じられます。
 神は人間の一途さの中に宿りやすいのではないでしょうか。一途とは何か。一途であるとは、言葉と行動が一致していることと意訳しても良いのではないでしょうか。本当に真に生きている人・確実に苦しみや悲しみ、喜び、感謝が存在する現実の世界を味わいつつ神を信じる人は、言葉と行動が一致せざるを得ないのです。本当に生きている人間の言葉は力強い。その言葉は真実を突き、その行動は世間から解放されていて、神に一途に向かっています。その者は神の前に立ちます。神は決して、この世のただ中で一途に生きる者、マリアを見逃すことはありませんでした。この世のただ中で神に対して一途である者の生と死という現実の生活は、神の測り知れない一方的な全能性という恵みによって支えられているのです。