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メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

祝福の言葉

ルカによる福音書 一章二六~二九節〉

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

 

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 この言葉は全ての人間がイエス・キリストを信じるときに言われるべき祝福の言葉となり得ます。私たちがイエス・キリストを信じたとき、神は、礼拝を通じて、牧者を通じて、あらゆる被造物を通じて、この祝福の言葉を人間の心に投げかけます。私たちは、マリアが戸惑ったように戸惑って良いのでしょう。私たちがこの祝福の言葉を本当に信じるには時間がかかり得るからです。しかし、この祝福の言葉とは、まさに本当に私たちに対する神の祝福の言葉なるでしょう。私たちがイエス・キリストを〝信じ〟、御言葉に〝耳を傾け〟、神に〝祈り〟、神による罪の赦しを〝体験する〟ことは、決して小さな奇跡ではなく、まさに神に祝福されるに値することを意味する大いなる奇跡なのです。「キリスト者がいるという事実、すなわち、このような自由を持つ人人がいるという事実は、聖霊と処女マリヤからイエス・キリストが生まれ給うたという事実よりも、また世界の無からの創造という事実よりも、小さい奇蹟ではない」(カール・バルト)まさにその者は、「おめでとう、恵まれた方。」と言われるに等しい者なのです。全ての人間は、神の祝福に与る権利を持っています。そして、その祝福によって救われる権利も持っています。なぜならば、イエス・キリストは〝全て〟の人間にとって――全人類の数が一〇〇とするなら、九九人を救う方ということでも七〇人という多数派を救う方でもなく、一人も取りこぼさない一〇〇人という全員を救う方という意味で――の救い主だからです。神の国には全ての被造物が神の安息の内に住む場所が確保されており、その国の入り口は三六〇度に用意されています。その入り口は全ての人間に開かれており、全ての人間がその国への道を歩むことが赦されています、赦されているのみですが・・・。神は、高きにいまし低きにいますイエス・キリストの名によって、全ての人間に、あらゆる被造物をもって「あなたの生を赦している私を信じなさい」と語りかけています。高きにいますイエス・キリストは、マリアに宿ることによって、「高き所」から降ってきたことを証明し、マリアの体内という具体的な「人間のただ中」にいることを証明し、私たちと同じ「低き所」にいますことを証明されました。そして、その〝内にいます〟イエス・キリストが、物理的にマリアの胎で育ち、後に生まれ、成長することが証明されています。私たちの内にいますイエス・キリストは、私たちと共に、私たち一人一人の歩みに合わせて成長してくださいます。それがまさに、「主があなたと共におられる」ということであり、「主はあなたが生まれたての赤ちゃんの時から肉体的死を遂げる老人の時まで常に隣りにいて、共に苦しみに与り、十字架を担ってくださっている」ということです。私たちの内にいますキリストの霊は、私たちがイエス・キリストを信じるという恵みが神に与えられることによって芽生えます。御言葉に聞き入ることは、その芽に水をやり、神の無条件の愛という光を浴びせ、御言葉という不可視なものが、信じる者の生きた体・可視可能なものになることではないでしょうか。
 以上のように、私はこの御言葉を通して、人間に対する神の祝福の言葉について考えさせられました。私は、御言葉に耳を傾けるとき、その都度、御言葉に隠されている奥義について、または神の恵みについて、「何のことかと考え込」まざるを得ないでしょう。しかし、マリアに示された神の一方的な祝福の言葉によって「内にいますイエス・キリスト」が示されたように、私たちに対しても、一方的な神の祝福という恵みが、神によって、神から、積極的に示されるでしょう。