always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

日常にひっそり潜む非日常

ルカによる福音書 一章二一~二三節〉

民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。

 

 

 「民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。」
誰でも、本当に聖所に神がいることが初めから分かっているなら、入る前から戸惑い、親密な面持ちになるに違いないでしょう。そして、神と対面したならば、恐らく誰もが恐れと戸惑いを抱くことと思います。神と対面する聖所に入るとは、本来このような恐れと戸惑いが付いて回るものであると私は思うのです。ここの場面で民衆は「不思議に思っていた」ようなので、いつもの儀式とは何かが違うと感じ取ったのでしょう。聖所に入るという儀式、つまり、神のいます場所に行くということは、今のキリスト教の礼拝のように、恐らく定期的に行われていたことであると思われます。その「定期的に行われていた」という意味での「日常」という領域において私たちには毎週神によって礼拝が準備され用意されていますが、実は、この「日常」の中には、このザカリアの儀式で起こったような「非日常」がいつの間にか入り込み、潜んでいるのではないでしょうか。礼拝の中に神がいますという状況は、〈「日常」と「非日常」の間を執り成すことができ、「非日常」の神の恵みを「日常」の人間の姿をもって現わしてくださったイエス・キリスト〉によって生まれている、と私は考えます。ザカリアと民衆は、もちろんこの聖所に入るという儀式をいつも特別なもの、「非日常」的なものとして扱っていたでしょうが、まさか本当にザカリアが主の使いと遭うとは思ってもいなかったでしょう。まさしく、「日常」の中に、「非日常」が入り込んだのです。入り込んだというよりも、「日常」の中にひっそりちょこんと初めから潜んでいた「非日常」が突如として一時的に表出し、可視化したと言った方が適切かもしれません。私たちの「日常」にも、いつも「非日常」は潜んでいるのではないでしょうか。私たちの「何気ない」日々は、実はこの「非日常」によって支えられた「何気なくない」日々なのでは・・・。その「何気なくない」ということを皆で分かち合い、共有し、「非日常」という神と出会うことに焦点を当てるのが、礼拝の一つの特性と言っても良いのではないでしょうか。
 私たちは「日常」の中で「非日常」と出会うならば、恐れと戸惑い、それも尋常ならない恐れと戸惑いを抱くことでしょう。しかし神は、主の使いを通して一三節でザカリアに言ったように、「恐れることはない」と言い給う。私たちをお造りになったこの世界の創造主である神は、「恐れることはない」と言い給う神なのです。私たちが日常で突然、大地震津波、または身近な者の死という非日常的出来事に巻き込まれたとしても、神は、私たちに「恐れることはない」と言い給う神で在り続け、私たちをその懐の中で包み、御手によって導かれる存在で在り続けるでしょう。「日常」、「非日常」と書いてきましたが、本来的な意味では、キリスト者は(キリスト者に限らずですが、私がキリスト者ですので、わざとキリスト者という言葉を使っています。)この境界線をあまり認識しておらず、どちらかというと、「非日常」の可視化を認識しやすい性質を帯びているのではないでしょうか。つまり、キリスト者は、神の恵みが可視状態になっていることに気づきやすいのです。
キリスト者になるとは、血の通っていない現実の中に聖霊なる神という生ける霊が人格として現臨することによって血の通った生々しい現実を生き始めるようになることを意味するのではないでしょうか。
しかし、話は変わりますが、この世には、ヨハネのように、生まれてこの方聖霊を帯びてしまっている者もいます。彼らの人生はこの世では、なんと厳しく苦しい人生であり、なんと豊かで神の喜びが溢れていることでしょう。彼らの人生は、既に、この世のただ中に存在する聖なるものであるのですから。神の国は彼らのものであり、既に彼らは神の国に入っているのかもしれません。イエスが山上の説教の初めに「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」と言われたことには、もしかしたら彼ら「心の貧しい人」(低みを生きる人)は、私たちが「日常」の生活で見えにくかったあのおぼろげで隠された神の恵みを非常に感じやすい状態に置かれている人たちなのかもしれません。