always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

時が来れば実現するキリストの祈り

ルカによる福音書 一章一八~二〇節〉

そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

 

 

 「時が来れば実現するわたしの言葉」
この言葉は一体私たちにとって何を意味するのでしょうか。ザカリアはその言葉を信じることができなかった故に口が利けなくなりました。私たちもまた、ザカリアが前もって神の奇跡を信じることができなかったように、本当の意味で神の奇跡を信じることができない場合が往々にしてあります。奇跡とは神の恵みの可視性を意味すると私は考えています。私たちは神の恵みの可視性を信じることができにくい世界で生きています。人に裏切られれば人を信じることが難しいように、神に裏切られたと思ってしまうほどの苦しい状況が私たちを襲った時、果たして私たちは神に全てを委ねることができるでしょうか。私たちは本当に弱く小さく、信仰が薄い者です。しかし神は、私たち人間がその神の恵みの可視性を信じないとしても、それを実現し給う方です。その実現し給うことが神の恵みの現れなのであり、これまで確実に実現し給うて来たが故に、神は、私たち人間によって愛と呼ばれ給います。
 私たちには、そもそも奇跡とはいかなるものであるのかを前もって理解することが赦されていないのではないでしょうか。私たちは日々祈り、何かが実現することを求めます。しかし、その願いが本当にその祈り通りには叶えられず、別な形で叶えられてきたということを私たちは知っている、そして知るでしょう。あくまで、未来の事象、そしてこの世の現実に干渉することができるのは神ただ御一方であるのですから。私たちは祈ることによって神に話しかけているに過ぎませんが、神は私たちの祈りを聞くことを欲しています。私たちは神に造られし尊い被造物であり、罪人であるにもかかわらず神の子と呼ばれることが赦されてしまっているのですから、神は私たちの祈りを聞きます。聞き続け、時が来た時に、「わたしの言葉」を実現させます。「わたしの言葉」とは神の言葉であって、決して私たちの祈りの言葉ではないでしょう。私たち人間は天空にいます神に祈るけれども、神は私たちのすぐ隣りで、私たちが現実世界で苦しんでいるその最中に寄り添って、その祈りを聞いてくださっているでしょう。隣りで親のように、友のように、恋人のように、カウンセラーのように、そして一つの人格的存在として、私たちの言葉に耳を傾け、うなずき、微笑み、悲しみ、理解し、そして共に祈ってくださいます。祈りは聖霊の働きによるものです。(しかし、誤解しないでいただきたいのは、祈れない人には聖霊がいないということではないという点です。このことは多くの抑圧を生むでしょうから、注意していただきたい大切なことです。)私たちの祈りは聖霊なる神によって天にいます神に向けられ、隣にいますイエス・キリストに聞かれ、その彼が、私たちの言葉通りにではなく、〝新たな言葉〟をもって祈り始めます。私たちの祈りは確実に聞かれている、このことにおいて私たちは確信を持つ権利を神から贈与され、所有します。しかし、「時が来れば実現するわたしの言葉」は、常にイエス・キリストによって新たに表現された祈りの言葉と成り給う。神は私たちの祈りの奥底に込められた想いを理解します。神は私たちの祈りを大切にします。私たちの偽りなき祈りは、自らもしくは他者の苦しみや憤怒やるかたないまっすぐな気持ちから生まれることが多く、また、希望の祈りも底知れぬ暗黒・身を引き裂く絶望を知っているからこそ生まれ、生きることに未来を置く祈りも、死ぬことに望みを置く思いを抱いてしまった経験から生まれることが多いのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちの祈りを決して孤独死させることはなく、他者との交わりの中へと導き、私たちを自死ではなく共生へと導くでしょう。