always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

主のために用意する者

ルカによる福音書 一章一一~一七節〉
すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 

 主の天使に出会ったならば、ザカリアだけではなく、誰もが不安になり、恐怖するのではないでしょうか。なぜならば、ザカリアも私たちも、自分が神の前では罪ある者・神に背いている者であるということを、本当は心の奥底で気づいているからだと私は思うからです。主の天使という世界を支配し裁きを行う神の使いに出会うということは、自分の罪のゆえに殺されるかもしれないということを感じさせもします。当時は、律法と律法から派生した「しなければならない」という戒めが多くあったでしょうから、今よりも、より一層そのように感じやすかったかもしれません。今の私たちは、既にイエス・キリストによって罪による死から救い出されています。
 旧約聖書で予言されていたメシアに先立ってこの世に来ると言われるエリヤが、ついに生まれます。これは、メシアがもうすぐ来ることの予言とも言えましょう。世界を救うメシア。その方が来る前に、ヨハネはその方のために準備をします。
それはどのような準備でしょうか。まず、「父の心を子に向けさせ」るという準備です。ここで言われている「父」とはもちろん主なる神のことを指し、心を子に向けさせるとは、イスラエルの民に対する神の信頼をもう一度構築するということでありましょう。しかし、もう一つ、私はこの「父」を具体的な親、つまり、主なる神ではなく、この世のそれぞれの家庭にいる親というように捉えても良いような気がするのです。この世の親たちは自分の子供をもちろん愛している場合が多いでしょう。しかし、彼ら親は、どうしても各自に与えられた義務、文化の慣習によって、本当の意味で自分の子供に対して、「この子は神が授けてくださった子である」という認識をすることが難しい状況にあり、そして時には歪んだ愛(のように見えるもの)をもって子に接し、身体的・精神的問わず、暴力をしてしまうことがあります。しかし、自分の子供が神から授けられた子であるという認識、または、この子は自分の所有物ではなく、他者と共に、そして更に神と共にある存在なのだという認識によって初めて、親の心、親の思考は、本当の意味で子に(神が授けてくださった子に!)向かうのではないでしょうか。
 更にヨハネは「逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」という準備をします。果たして、本当に逆らう者に分別を持たせることなど可能なのでしょうか。私たちは様々な面で逆らう者に対してあまりにも多くの偏見と差別の目を持ちやすく、逆らう者に分別を持たせることなどできないと諦めてしまうことが多いかもしれません。(そもそも、逆らう者とは誰か!)しかし、ヨハネに対しては、その一見私たちがすぐに諦めてしまいそうなことを成す預言が天使から与えられたのです。世間から正しいと思われている人だけを主のために用意するのではなく、逆らう者までも用意するのです。むしろ、この文脈からすると、まるで「逆らう者」が「準備のできた民」であるかのようにさえも感じさせられます。「逆らう者」、一体「逆らう者」とは何者なのでしょう。何に逆らって生きて来たのでしょう。何に抵抗して生きてきたのでしょうか。彼は恐らく、当時で言えば律法から派生した仕来りに、現代で言えば社会の不文律に暗黙の了解として組み込まれてきた差別・蔑視に逆らって生きてきたのではないでしょうか。なぜ逆らうのでしょう。なぜ抵抗するのでしょう。それは、この世の不文律に組み込まれている差別・蔑視・抑圧・蹂躙のような人の命を軽んじる要素に嫌気が差していたからではないでしょうか。そして、その要素が組み込まれているこの世の不文律に忠実に従っていると思われる人たちと、あまりにも生きていく上での感覚が異なっていたからではないでしょうか。それゆえ彼は、この世の不文律の中に潜む偽善と、それらに忠実に従っていると思われる人たちの偽善に敏感であり、神にとってみれば、純粋無垢かつ社会から自立し自律的判断を成し得る子どもに近い存在である故に、「準備のできた民」となりやすいのではないでしょうか。「正しい人の分別」とは、律法から派生した仕来りや社会の慣習というこの世の不文律の偽善に対して敏感であるということと、一方的な神の恵みという無償性・解放性に対して敏感であるという分別を意味するのではないか、イエス・キリストの生き方を考えるとき、私はこのように感じざるを得ません。イエス・キリストは社会からはじき出されている人たちを非常に大切にし、彼らに立ち上がる力を与えられました。
 ヨハネ聖霊に満たされています。ヨハネは神の恵みによって生かされ、活かされている者です。彼は主イエス・キリストというこの世を罪から救う真の救い主のために、これらの準備をするためにこの世に誕生します。