always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

二つの重なった交わり

ルカによる福音書 一章八~一〇節〉
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司の職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。

 「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」
この言葉は私にユダヤの神殿での風習の重みを感じさせます。神に対して、代表者が捧げ物をしたり、香をたくということをしているときに、他の皆は祈ることによって、この代表者と思いを一つにして神の御前に立つということ。現代に、当時のユダヤのこのような厳粛さや唯一の主なる神に対する真剣な思いが、具体的な風習として根付いている所が果たしてあるでしょうか。代表者と思いを一つにして民衆の皆が神に「祈る」ということ、宗教というものの尊さの一つはここにあると思われます。誰か一人ではなく、民衆の「皆」で神に相対し、祈りをもって心を神に捧げるのです。当時のユダヤには、抑圧や差別はあったにしろ、そのようなことが当たり前のように定着し、民衆の皆、地域の皆で神に思いを寄せていたのではないでしょうか。
 キリスト教では礼拝がそうでしょうが、一部では地域で一体となって、その儀式に対して習慣的・形式的にではなく、〈人間側の想いを神に捧げる存在提示〉という形、または〈神が人間に、イエス・キリストという存在を捧げる存在提示〉という形を取った双方向の存在提示の祈りによって参加することは、人間にとって何を意味するでしょうか。それは、神を信じる者、祈る者の存在、そして低みを生きる者の存在を、明らかに目に見える形で隣りにいることを認識させることに繋がるでしょう。自分の心の想いを全て知り尽くした神の前に、心の内ではそれぞれが一人になって孤独の内に神と相対するのですが、孤独であると同時に孤独ではないという状況が、この集いであり、礼拝の状況でありましょう。この状況は大いに特異な状況であり、人間が神との繋がりを深めるためのきっかけを生むことになります。人間の想いを全て知り尽くした神と相対することは、神に自分自身のありのままの姿をさらけ出すということでありますが、そのときに同時に、隣りにも同じように、ありのままの心・弱く小さい一人の人間としてのありのままの姿を神に献げようとしている人間がいるのです。これが礼拝の一つの特徴と考えられるでしょう。神との交わりにおいて孤独でありながら孤独ではないという、相反する二つの状況が重なって存在しているということです。
 人間が神を求めるとき、その人間は神と自分という一対一の関係の中に入ります。しかし、神は、「神と私」という一対一以外の関係を私たちに提供しています。それが、唯一の神を信じる者同士の交わりなのではないでしょうか。私たちには、礼拝を通して、この二つの交わりを神から同時に与えられているのです。私たち人間には、この二つの重なった交わりが必要不可欠なのであり、そのことを十分に知っている神は、礼拝を通して、信徒の交わりを通して、それを与えることを忘れません。共に祈り、共に讃美歌を歌い、説教を通じて共に神の言葉に与るという恵みを、神は私たちに与えてくださいます。このような〈他者と共に在るという恵み〉の授与が、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ一八章二〇節)という御言葉の意味を表していると私は考えるのです。〈罪を持ち、的外れな行動を起こしながらも同時に神を讃美する者たちの交わり〉のただ中に、〈罪という言葉に含まれている全ての抑圧的思考回路・神が造り給うた人間の命を蔑ろにする物事の考え方を消滅させ、私たちの存在そのものをありのままで良しとし、無償の赦しをもって低みを認識させ導くイエス・キリスト〉がいてくださるのです。神との交わりにおける「孤独でありながら孤独ではない」という神が造り出し給うた状況は、このイエス・キリストたる神の隠れたる恵み・気づかれにくい恵みを私たちに提供し、既にこの世界に存在させているのです。