always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

神の前に正しい人

ルカによる福音書 一章五~七節〉
 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 ユダヤの王ヘロデの時代にも、今の時代にも、「正しい人」はこの世にはいない、いないことが当然の帰結。人間的基準における正しい人はむしろ、神に欲されないのではないでしょうか。しかし、ここでは敢えて、ザカリアとエリサベトは「主の掟と定めを全て守り、非のうちどころがなかった」者として描かれていますので、ここでは「正しい人」をテーマとして、なぜ「正しい」のか、どのような意味で「正しい」とされているのかということについて思いを巡らすこととします。
 非キリスト者キリスト者も同様に神の基準において「正しく」在ることはできないでしょう。当時の律法の中心である十戒を今日守ることはできないでしょう。しかし、キリスト者は神を意識する者ですので、自分自身の椅子ではなく、「神の前に」ある椅子に聖霊なる神によって座らされ、神と繋がらされる可能性が高いでしょう。ここに、キリスト・イエスを信じる者の体に宿ってくださる聖霊の御業が在り給う。神と繋がっていなければ、キリスト者は「正しい人」ではないのですが、神に繋がっているならば、(低みを認識しているならば、)キリスト者は神によって「正しい人」として勝手に認定され給う。しかし、神に繋がっているキリスト者にとって「正しい」とは何を意味するのでしょうか。それは、〝キリスト者が〟十戒を守っているということではなく、〝神が〟人間に十戒を守らせ給うということでしょう。〝キリスト者が〟神に仕えるということではなく、〝神が〟人間を神に仕えるように造り変えていき給うということです。キリスト者が決めた正しさという基準によって私は「正しい人」にはなり得ず、神が決めた正しさという基準によってキリスト者が「正しい人」と勝手に判断され、一方的に認定されるのです。私は自分自身を神が決めた基準における「正しい人」にするということを欲していない心も持っているのですが、神は私をその基準における「正しい人」にしたいと欲し、私を神と共に生きる者へと、互いに愛し合う者へと、低みを認識する者へと変えたいと願っているのです。
 ザカリアもエリサベトも年をとっていました。更にエリサベトは不妊状態でした。彼らは子を生む能力を失っていました。子という一人の人間を誕生させるということは何を意味するのでしょう。それは、被造物の一つがこの世界に創造されることを意味します。創造するという能力は、多くの場合、人を元気にするのではないでしょうか。人を楽しませ、喜びに与らせるのではないでしょうか。その能力を彼らは失っていました。彼らは大いなる命を生み出すという創造能力を失っていたために、そのことによる喜びに与ることができないのです。彼らは身体的な能力を失ったという意味で不完全な人間なのです。しかし、高齢になること、身体的能力が低下すること、または精神的に障がいを負うことが必ずしも、喪失ばかりを意味するのではないことは自明のことであります。その不完全な人間でも、――何事においても完全な人間はおらず、完全という基準を私たち人間には決めることはできないでしょう。試行錯誤をするのみであり、その作業をし続けることが大切なのだと私は思います。――「神の前に正しい人」とされ、神の前にある椅子に座っているのです。彼らはその椅子に無意識に座っています。その椅子は彼ら自身が用意した椅子ではなく、神が事前に、彼らに気づかれないように、こっそり用意しておいた椅子なのです。「まことにあなたは御自分を隠される神(イザヤ書四五章一五節)」
 これから彼らは、神によって創造能力が付与されるという奇跡を通して、奇跡的な喜びが与えられることになるのですが、それは後の話です。