always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

主体者としての神

 

ルカによる福音書 一章一~四節〉
 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 私は今から何を書こうとしているのでしょうか。それは、私の中で起こっている、そしてこれから起こるであろう聖霊による、主なる神との交わりについてです。私は「すべてのことを初めから詳しく調べて」はいません。しかし、私はこれから成される御言葉による気づきにおいて、「今から」調べようとしています。自分自身と神との関係、イエス・キリストとはどんな存在か、三位一体の神を信じることで私はどう新たにされていくのか、福音とは何か、私はそのようなことを黙想という形で調べようと何かしらの思い巡らしを今から試みます。「多くの人々が既に手を着けて」いたとしても、私はまだ手を着けていません。私において「実現した事柄」、そして「実現するであろう事柄」について、私はこれから手を着けていくのであります。
 さて、今イエス・キリストが私と一緒にいようとしている理由は何でしょうか。――究極的には神のイエスに対する「低みに生きる被造物と共に在れ」という祝福の決定・宣言によるもの、つまり、神の御旨に従う主イエス自らの私に対する歩み寄り、主イエスの自律的判断による「あなたのそばにいる」という選択によるのでしょうが――それは、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」の存在に起因するでしょう。彼らの存在は、聖霊なる神の存在を証するものです。彼らは長い長い年月を、神と共に歩み、一人一人に御言葉を伝え、イエス・キリストによる救いの真実を身をもって証してきました。それは、永遠なる神が存在することの証でもあり、不滅の神が存在することの証でもあります。永遠と言ったのは、聖霊なる神が「御言葉のために働いた人々」、「終わりなき未来において御言葉のために働く人々」の隣りにとこしえに在るからです。不滅と言ったのは、どんな歴史、どんな社会的状況の中でも、聖霊なる神が、神と共に歩もうとしている人々の内から消えて滅んだりするということは決してないからです。神は確実に常にどんな時代においても、どんなに悲惨な環境においても、神の救いを伝える働き人を生起させる。それは神の欲し給うことである故に成されるでしょう。神が私たちを選び、私たちを召し、私たちを一つ一つの焦点に集わせるのです。人間が成す活動であれば、いつかは無くなり消滅してしまうことでしょう。しかし、神自らが生み出し、神自らが召し、神自らが成し給う。福音を伝える者を生み出すのも、福音を受け止め、信じる者を生み出すのも、神御自身。神が福音を伝える主体者で在り給う。
 私は神の主体的行動によって、今御言葉と対峙しようとしています。神の主体性はなんと強いことでしょう。神の主体性はいかなる被造物を持ってしても消すことはできないでしょう。神は御言葉という人類への贈り物を使って、これから、私の心を、私の思考を、動かし続けます。この黙想は、私による皆さんに対する献呈にも少しはなるでしょうが、それよりもむしろ、神による私に対する一つの贈与となるでしょう。その贈与を、私は一つ一つの黙想を通して与えられていくこととなり、これからルカによる福音書を通して、私は私独自の言葉を紡いでいくことになるでしょう。一つ一つの御言葉において、神が私に適切な気づきを与え、私の心の頑なさを打ち砕くことを祈ります。