タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

私の犯した罪によって。

罪は罪だった。私の犯した罪によって私は今心の病に襲われている。私はそれほどまでに罪を犯したのだ。金銭の面で罪を犯し、精神の面で罪を犯した私を、神が正しく裁かれないはずもない。ありのままで愛されているとは、ありのままの姿がまず裁かれなければいけないのだ。私はありのままの罪を神に裁いていただいているので、今苦しんでいる。

教会を前にして

教会の前で教会から引き返す。目の前で礼拝が行われようとしているのに、私は今日、教会の前に来て教会から引き返した。ものすごく疲れているから。行くのが億劫だから。でも、来週は行ければと思う。

私を理解して欲しい。

仕事が終わり、やっと一休みできる。自分の心を休ませて、あまり現実離れしたことばかりを考えすぎないように、自分を落ち着かせることの大切さ。夢ばかり見て、現実は何もできない自分。現実ばかり見て、将来を暗くする自分。どれが本当のことなのか。言葉の羅列が私を悩ませる。悩みの内にありながらも、文章を書くことと文章を読むことは私に平安を与える。文章に関わることは、孤独のうちに交わりをもたらすものだ。誰か、私のことを理解してくれる人はいないのだろうか。私が自分を紹介することを恐れているから、誰も私のことを知らないままである。誰か、私に興味を持って欲しい。私はこんなに独善的でもなく、空想にふけっているわけでもないことを、どうか理解して欲しい。誰か、私のそばで、本当の私を知ってくれはしないか。私の文章を理解してはくれないか。私の文章の行間を読み解く人はいまいか。

救い主の初めの姿

ルカによる福音書 二章一〇~一二節〉

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 

 

 天使は「民全体」への喜びを羊飼いに告げます。羊飼いに告げますが、羊飼い〝だけ〟に告げるのではなく、羊飼いを通して民〝全体〟に知らされるのです。既にヨハネの誕生の予言が祭司であるザカリアに語られ、救い主イエスの誕生についても天使が直接マリアに予告しており、神は前もって〝天使を代表とした神の一方的な恵み〟の存在を通して様々な立場の人に喜びを告げていたのです。神の一方的な喜びの知らせの前には、人間側に恐れが用意されてきましたが、その恐れに対して天使はその度にそれぞれに応じて配慮を示してきました。その配慮によって、恐怖を与える神から喜びを与える神へと、人々の神に対する思考・認識は徐々に転換されていくのです。

 そして遂に、喜びを与える神が、神の独り子としてこの世に肉体となって現れます。「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」、つまり恐怖の神・この世界を裁き、破壊する神の降臨ではなく、この世界を愛し、喜びを与える救いの神の降誕が、「あなたがた」(羊飼いというこの世の寄留者から、その知らせを受ける民全体)のために起こったのです。貧しき者から富む者まで、この世界の全ての弱さを受け入れる独り子イエスを信じる者がただの一人も滅びないで救われるために…。そしてその時、〝貧しい〟、〝富む〟というような人類の搾取・差別・敵意・憎悪によって作られ、止むを得ず使われてきたレッテルの全てが取り払われるでしょう。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ書三章二八節)」とあるように。(これは現実ではなく理想ですが、理想は掲げましょう。)

〈寄留者という立場の羊飼いから民全体へ〉という方向性は、〈どんなに苦しく、貧しく、この世から除外された状態に置かれた者〉でも神は見捨てることはなく、〈何によって苦しめられているか分からないがとにかく苦しみや虚しさによって心が蝕まれてしまう金持ちの人〉の心をも、神はイエスの霊を与えることによって救い、神の平安で満たす」という神の想いの表れであり、「布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子」が「あなたがたへのしるし」であると言われているのも、同じことを意味するのではないでしょうか。

 しるしは、目印です。神は、神を信じる者が神を信じる際に分かりやすいように目印を置かれたのです。その目印が、「布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子」という儚く、弱く、優しい手で接しなければ死んでしまうような存在なのです。神は敢えてそのような存在を、神を信じる際の目印にしたのでしょう。それは、金持ちであろうと貧しかろうと、どんな境遇に置かれていたとしても、全ての人間が愛し合えるようになり、お互いの弱さ、儚さをも含めた存在そのものを受け入れ合い、大切な兄弟姉妹として認識し合えるようになるためです。神の愛、神の真実、神の希望は、この世においては認識されにくく、理解されにくいものであり、「弱い者が逃げるために勝手に造り出した幻想」というレッテルが貼られやすいものかもしれませんし、「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(ローマ書五章一六節)」というこの世の法律ではあり得ないことを伝えるものでもあるでしょう。私たちは、この世の懸命な試行錯誤では神の愛に辿り着くことはできません。辿り着いたとしたならば、それ自体が神の愛・神の恵みなのであり、実は、いつもこの世の懸命な試行錯誤の裏には、神が隠れていて、神は、私たちを驚かせ、喜ばせ、存在をはっきりとかつ秘かに認識されるために、今か今かと待ちわびているのです。「われわれは、自分たちが認識しないものの中にではなく、認識するものの中に神を見出すべきなのだ。(ボンヘッファー)」と言われるように、私たちは初めに認識する現実・認識できる現実を大切にすべきではないでしょうか。私たちが認識できる現実は、思った以上に苛酷なもので、単純明快な一つの理論や考えで解決できるようなものではありません。そして、そのような現実だからこそ、神は敢えて、このような神の愛の象徴であり神の愛それ自体である〝世の救い主イエスの初めの姿〟として、「布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子」という〝か弱い〟姿を選び給うたのだと私は思うのです。

 

ダメ人間

なんで俺はこんなにダメな人間なんだ。みんなが怒ってみんなが責めて。