タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

イエスの系図

ルカによる福音書 三章二三~三八節〉

エスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

 

 新共同訳聖書では「イエスの系図」と題して、「イエス、洗礼を受ける」と次の四章の「誘惑を受ける」の間に、この系図の文が挿入されています。三章の初めから見ますと、ヨルダン川という荒れ野でのヨハネによる洗礼から始まり、イエスの受洗があり、この系図を飛ばして四章の初めの一節を見ると、「さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。」と書いてあり、イエスヨルダン川ヨハネから洗礼を受けたことが四章に繋がっていることが分かります。ルカによる福音書の記者がどのような意図をもって、このような書き方をしたかは定かではありませんが、イエスの受洗から誘惑を受けることに直接繋げることはせず、一端ここでイエスの系図を挿入することで一区切りを付けようとしているようにも考えられます。つまり、「イエスの受洗」を一区切りとして描こうとしているのではないかということです。

 イエスが受洗した年齢は明確には記されていませんが、あくまでルカによる福音書からの推測ですが、三章から四章への流れ、つまり、洗礼を受けてからガリラヤで伝道を始める間を考えると、洗礼を受けたのは二五~三〇歳辺りであったのではないかと私は勝手に思っています。どこから宣教が始まったと捉えるべきなのかは定かではないですが、――もしかしたらイエスが悪魔から誘惑を受ける所を、「イエスの悪魔に対する宣教」と捉える人もいるかもしれません。――恐らく四章一四節でのガリラヤでの伝道からを宣教と捉えるのが妥当でしょう。イエスは三〇歳で、ガリラヤから宣教を始めました。イエスは三〇歳という年齢で宣教の〝時〟が満ちたのです。この〝時〟については四章一四~一五節の所で詳しく書くことになるでしょう。

 さて、改めて系図に着目してみます。ここには多くの人々の名前が記されています。アダムの時代やアブラハムの時代の年齢の数え方がどのようなものであったのかは分かりませんし、アダムが本当に存在したのかは分かりませんが、ここではそのような疑問はあまり意味を為さないように思えます。問題なのは、イエスはアダムから連綿と繋がって来た「人間の子」でありながら、神がこの世に贈り給うた唯一の救い主、「神の子」であるという点です。イエスは、旧約時代の長い長い歴史を通して、一人一人の深く複雑な人生の積み重ねを通して、この地に生まれました。救い主なるイエスの誕生までには多くの人間の苦しみ、悲しみ、抑圧、差別、殺人、そして戦争があり、それと同時に多くの神の御業が、癒しや慰め、解放や受容、生きる喜びの贈与、そして平和という形で歴史を支え導いてきたことが伺えます。アダムからヨセフに至るまで、神は罪深い人類の地を完全に絶やすことは決してなさいませんでした。ここで救い主イエスが誕生するからです。アダムからヨセフまでの罪深い人類の歴史に、神はここで一線を引きました。アダムで終わらず「神に至る」唯一の人間、人間でありながら神から生まれた人間、人間でありながら唯一「神の子、キリスト」と名乗ることを赦された一人の人間イエスの誕生によって、神は、人類の罪の歴史と人類によって苦しめられてきた被造世界の歴史に、罪を贖う一つの大いなる雫を投じました。

 イエスは洗礼を受け、祈り、聖霊を受け、神から言葉を授かりました。このことにしっかり注目するために、記者は「神に至る」までの系図を、敢えてここで、はっきりと示しておきたかったのではないでしょうか。聖霊を受け、明確に神から「あなたはわたしの愛する子」という言葉を貰ったことで、記者も、系図を挿入することを通して、イエスが神の子であることを再確認しているように思われます。イエスが私たちと同じ、弱く罪深い限界を持つ人間の姿をとっていることを示すと共に、神によって贈られた、罪を贖う人類の救い主であることをこのイエスの系図が示していると捉えると、この系図は、三章の終わりとして、読者への相応しい提供となるのではないでしょうか。

イエス、洗礼を受け、祈る。

ルカによる福音書 三章二一~二二節〉

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

このとき民衆とイエスが受けた洗礼は、ヨハネによる悔い改めの洗礼であろうと思われます。このことはマタイによる福音書三章一三~一七節で詳しく記述されていますがルカによる福音書からずれてしまうので、ここではその箇所については触れません。ルカによる福音書の記者がこの三章二一~二二節でヨハネの名前を一言も出さなかった理由は分かりませんが、三章の一~二〇節の所で既にヨハネの悔い改めの洗礼について詳しく書いておきましたので、その話の続きである今回の節では敢えてヨハネの名前を出す必要はないと考えたのではないかとも考えられます。

 この箇所から感じられることは、イエスは他の民衆と〝同じように〟悔い改めの洗礼を受けておられたということです。イエスは、唯一の神の子、肉体を持った神の子でありながら、他の民衆と〝同じように〟一人の〝人間〟として悔い改めの洗礼を受けたのではないかと推察できます。イエスは決して、「自分には洗礼なんて必要ない。悔い改めの洗礼を受けるまでもなく、私は既に唯一の神の子なのだから、このまま宣教を始める。」とは思っていなかったでしょう。イエスはこれから自分が福音を始める際の転換点として、今一度自分自身の存在の意味を確認するために、ここで他の民衆と同じように〝荒れ野〟にいるヨハネから他の民衆と同じ視点に立って――いや、生まれてこの方その視点で生きてきたのではないでしょうか――洗礼を受けようと思ったのではないでしょうか。荒れ野のヨハネの洗礼を受けに来た民衆の多くは罪を自覚していた人たちであり、これからどのような道を歩めばよいか分からない人たちであり、その中には経済的に貧しい人もいたでしょうし、家庭内の問題で悩んでいた人たちもいたでしょうし、世間から罪人として判子を押され差別されていた人たちもいたでしょうし、希死念慮に陥っていた人もいたかもしれません。イエスは、そのような民衆のただ中にいて、自分がこれから進むべき道を再確認していたのではないでしょうか。つまり、弱くされ、小さくされ、差別され、自分の罪で苦しんでいる人たちと共に生きる道を歩む決意としても、イエスは洗礼を受けたのではないかということです。

 イエスは洗礼を受けた後、そのような民衆のことを思いながら神に祈り、神に尋ねました。「私はこれからあなたの僕として、この体をもって、この生き方をもって福音を伝えていこうとしています。神よ、父よ、私の道をお守りください」、イエスはもしかしたらこのように祈ったかもしれません。イエスは自分が十字架で死ぬ道を歩むことを恐らく無意識のうちに予期していました。その十字架への道の出発のための準備として、心を整えるためにイエスは神に祈り尋ねたのでしょう。イエスの決意、イエスの覚悟は大いなるものです――いや、真実には、イエスは決意や覚悟をする以前に既にイエスご自身が十字架そのもので在られ給うた――。当時のユダヤ社会の根底を覆す生き方、律法によって縛られていた者たちを解放するための生き方、この世界にいる全ての人間の罪をわが身に負って死ぬ生き方を、イエスはこのとき始めようとしていたのです――本当は初めからそう生きておられた――。

 私たちも、何かしら覚悟を持って歩みを進めなくてはいけないときが来るかもしれません。(しかし、覚悟できない者は既に覚悟している。)そのとき私たちは、イエスがここで祈ったように神に祈ることが大切になってくるのではないでしょうか。イエスがどのように祈ったかは具体的に書かれてはいませんが、イエスは神に祈り、神に尋ね、神に道を委ねようとしています。祈りとは〈「自分の道を神へ委譲する心」を整える作業〉になり得ます。イエスは祈る姿をもって私たちに祈ることの大切さを伝えています。このイエスの祈る姿は、神に祈ることによって自分の道を神に明け渡すことの大切さを私たちに伝えています。(先ほど、「イエスの決意、イエスの覚悟は大いなるものである。」と言いましたが、決意や覚悟に大きい小さいもなく、重圧や責任も必要ありません。ただただ神に委ねるのみなのです。祈りに込める決意、覚悟、苦しみなどの思いが私たちの心にのみ留まってしまったならば、私たちは重圧とこの世的責任感によって押しつぶされ、この世の奴隷となってしまう可能性がありますが、神への委譲としての祈りによって私たちは重荷を神に委ね、明け渡すことができます。)

 神はこのイエスの祈りに応えました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、これがイエスの祈りに対する神の返事です。神はイエスを安心させ、勇気づけようとしているのではないでしょうか。神はこの言葉に、「イエス、愛する我が子よ、私はお前を心から愛している。お前の存在を心から喜んでいる。私はお前を愛し、お前の全てを知っている。お前がこれから苦しんでいる人々と共に生きようとしているように、私もいつもお前を見守っている。だから安心して進みなさい。お前の体は私の体、お前の道は私の道なのだ。強く雄々しく在りなさい」、というような思いを込めていたかもしれません。イエスヨハネの水による洗礼の後、〝祈ることによって〟聖霊による洗礼を神から受けました。

 祈りが天を開きました。祈りが天の国の扉を開ける鍵となり、天の国にいます神と応答することを可能にしました。天は祈りによって開拓されるのです。私たちは、イエスがここで神様から言葉を授かったように、祈りによる開拓の道を通して神の言葉を貰い受けていきます。祈りは聖書の御言葉の扉を開き、祈りは天を開き、天と地の間にある分厚い壁を砕き、私たちが住むこの被造世界に神の言葉を降らせます。祈りは私たちが生きる現実のただ中に天を呼び起こし、祈る一人一人にそれぞれが歩むべき天の道、現実を生きたイエス・キリストの道を指し示します。

ヘロデの隣りに

ルカによる福音書 三章一九~二〇節〉

ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 

 荒れ野で福音を伝えていたヨハネ、領主ヘロデが住んでいた場所とは物理的にも精神的にも関係のなさそうな荒れ野で神の言葉を語っていたヨハネが、今ここで領主ヘロデと対峙し、領主ヘロデの隣りにいて、領主ヘロデと話をし、論争をしたのです。荒れ野のヨハネは領主ヘロデの心の隣りにいました。ヨハネは領主ヘロデというこの世で身分の高い者の心の隣りにいました。このことは正直容易なことではないでしょう。この世で身分の高い者、または「この世で身分の高い者のみが成功者であると思っている者」の心は容易に凝り固まりやすいのです。なぜならば、彼らは小さい子供の頃から、親に「お前はそんなこともできないのか」と言われ、社会に「お前はこれができなければ人間としての価値がない」「お前は一番でなければいけない」と言われ続け、そして、その他多くの抑圧的な言葉を言われ続けて競争社会、差別社会の中で生きて来たことによって、頭の思考回路が、自分で生み出した考えによるものではなく、この世の社会によって無意識のうちに埋め込まれた考え・常識という幻想によって支配されてしまっているのですから。彼らの人生は辛いものでした。自分の弱さを他者と分かち合うことが赦されずに生きなければいけなかった彼らの人生は非常に悲しく、寂しいものでした。そのような者らの一人としての領主ヘロデの隣りにヨハネはいました。そして彼と対峙しました。神の言葉を預かったヨハネは彼と対話をせずにはおれなかったのです。その対話の延長線上に論争があり、対立が生まれてしまうことが分かっていても、ヨハネはヘロデと対話せざるを得ませんでした。神の言葉を預かったヨハネ、この世において福音を語りながらも苦難に与る一人の人間としてのヨハネは、一人の人間として、ヘロデと同じ命を与えられた一人の生身の人間として、ヘロデを責めなければならないと思ったのかもしれません。ヨハネは、敢えて受け入れることとは真逆のように見える「責める」という行為によって、愛するとは真逆のように見える「赦さない」という選択によって、ヘロデの兄弟になろうとしていたのではないでしょうか。ヨハネは責める時、本当は責めたくないのに悲しみをもって敢えて責めていたと思います。赦さないという選択をするとき、これまでヘロデを縛り付けてきてヘロデの内面を形成してきたヘロデの背後にあるこの世を赦すことができなかったと思います。ヨハネはヘロデの一人の兄弟になろうとしてヘロデを敢えて責め、そして、そのヘロデに牢に閉じ込められました。

私たちは、自分たちの心も固くなっているのに、ヘロデのような心が固くなってしまっている者の隣りに居続けることができるでしょうか。そしてそのような心の固くなった人の心の隣りに足を踏み入れる勇気を、果たして私たちは持っているでしょうか。ヨハネはヘロデの隣りに足を踏み入れ、歩み寄りました。ヨハネは牢に閉じ込められてしまうということは予期していたことでしょう。しかしそのことを予期していても、ヨハネはヘロデの隣りにいたいと思い、ヘロデの隣りに居ようとしました。結果、ヨハネは兄弟になろうとしたヘロデによって牢に閉じ込められ、ヘロデはこれまでの人生で積み重ねてきたことのように、一つの悪事を積み上げてしまいました。しかし、この悪事はヘロデにとってどのような悪事となったでしょうか。ヨハネに対するこの悪事は、ヘロデの心に一つの引っ掛かりを生じさせたかもしれません。その引っ掛かりは、ヘロデの心の片隅に追いやられていた良心をくすぶり、良心を揺り動かし、ヘロデに良心の呵責という名の苛立ちを引き起こしたかもしれません。

人間の人間に対する歩み寄りは、時には勇気を伴い、時にはその勇気の歩み寄りの結果として両者に傷を負わせてしまうかもしれません。しかし、それでも人間は、人間の隣りに居ようとすることによって互いに生かされ、互いに愛し合える可能性を見出し得ます。傷を負うことを恐れず、私たちはヘロデの隣りに、対等な一人の人間として、足を踏み入れていかなければいけないでしょう。焦って行動することはありません。足を踏み入れる時は神が用意してくださるでしょう。そしてその結果傷を負うことになったとしても、神が全ての悔しさを知っていてくださいます。神は新たな質的・量的出会いによって私たちの命を生かし、輝かしてくださるでしょう。

聖霊による洗礼

ルカによる福音書 三章一五~一八節〉

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 

 民衆の多くが「ヨハネこそ待ち望んでいたメシアなのではないか」と思っていたのですが、そこでヨハネはそのことを否定し、更に自分よりもはるかに優れた方が来るということを民衆に伝えます。ヨハネは主を畏れていたので、決して民衆によって祀り上げられることによって「自分こそメシアである」というようなことは言いませんでした。ここにヨハネの謙虚さがあります。本当に神を畏れている者は自分がメシアであるなどとは口が曲がってでも言えないでしょう。自分で、自分の愚かさ・小ささ・弱さ・罪深さをはっきり認識しているが故に、ヨハネは謙虚にならざるを得なかったのではないでしょうか。そして民衆が本当に待ち望んでいる方について語ります。ヨハネは恐らく、何度もこのような語り口で民衆に「わたしよりも優れた方」について話していたのでしょう。

ヨハネは言います、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。ここでまたもや聖霊という言葉が出て来ます。ヨハネ聖霊を知っていました。自らの口で聖霊について民衆に話をしていました。聖霊は目に見えないけれども確実に存在する霊であって、その聖霊と火とをもって「わたしよりも優れた方」は洗礼を授けるとヨハネは話しています。ヨハネは自分の誕生において自分の両親が聖霊に満たされてきたということを知り、聖霊に満たされるとはどのようなことかを鮮明にではないにしろ、おぼろながらにも把握していたのではないでしょうか。このことは、聖霊という存在はキリスト教が成立する前から、そしてイエス・キリストが宣教する前から存在し、おぼろながらにも少数の人々には把握されていた存在であるということが予想されます(しかし、このことは解釈の問題ですが)。ヨハネはきっと次のように思っていたのではないでしょうか。「私は確かに知らず知らずのうちに聖霊によって導かれて、あなたがたに水による洗礼という目に見える形での洗礼を授けた。しかし私にはあなたがたに聖霊、つまり聖なる霊という新たな命を分け与えることはできず、あなたがたを本当には救うことはできないのだ。あなたがたに聖なる霊という新たな命を分け与え、一人一人の心に植えてくださる方は後に来るのであって、私にとってはその方の所有物に触れることすら恐ろしいことであって、私はその方の歩く道路を整備している清掃員のような者に過ぎない」、あまりにもヨハネは謙遜しすぎているのではないかと思われるかもしれませんが、もしかしたら、このようなヨハネの姿は、イエス・キリストを本当に知っている者の一つの思いなのかもしれません。このヨハネの謙遜は、自己卑下でも自己否定でもなく、「わたしよりも優れた方」を世界の救い主としてはっきり認識し公に示そうとしているからこその心境でしょう。ヨハネは後にヘロデ王によって殺されることとなりますが、私は、洗礼者ヨハネは、十二使徒パウロがそれぞれの視点でイエス・キリストを見ていたように、イエス・キリストのことを独自の視点で見ていたではないかと思います。

「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

ここで今度は火についてヨハネは話します。この箇所については多くの見解があるでしょうが、私は「聖霊と火による洗礼」という言葉を「聖霊という消えることのない火による洗礼」と訳したいです。つまり「わたしよりも優れた方」は聖霊という「消えることのない火」を私たちに分け与えることによって、私たちの殻を焼き払ってくださるのです。「わたしよりも優れた方」は自らの手を、自らの足を使って、この世界を掃除し整理してくださる方なのです。ヨハネイエス・キリストの道路を掃除し、イエス・キリストはこの世界を掃除するのです。私たちにとって栄養となる麦はしっかり倉に保存され、不必要な殻は「消えることのない火」である聖霊という新たな命の贈与によって焼き払われるのです。しかし、ここで疑問に思っている人はいないでしょうか。「それならば、なぜ私はイエス・キリストを信じているのに、罪にまみれているのか」と思ってしまうのは少数者でしょうか。この問題はとても難しいことのように思えますが、イエス・キリスト聖霊による洗礼というものは「消えることのない」という意味で継続して授けられるものであって、私たちは水による洗礼を受けてキリスト者になったとしても、聖霊による洗礼はその後も何度も受け続けるものなのです。人生は思ったよりも長く、人それぞれの波があります。その長く険しく多くの出来事が待ち受けている中で、キリスト者はいつも共にいてくださる聖なる霊による自発的創造(強制的ではなく)・解放的革命(抑圧的ではなく)によって何度も力を得ます。

ヨハネの水による洗礼によって、私たちは自分の心に主なる神という存在を置くことになり、歩く道を神の道へと方向転換します。そして、その道を歩む力として何度も聖霊による洗礼を受け、歩みを進めることができるのです。そして、聖霊に満たされている者は、極端に言うならば罪を犯さず、正確にイエス・キリストを信じている状態のとき、その者は聖なる霊による自発的創造・解放的革命の内に置かれています。その者は、無意識であったとしても、罪という抑圧的要素を含む言葉から解放されています。その者は存在という存在が赦されている事実の確信における喜びに満たされていて、神への畏敬の念、背伸びして神様のようになろうとしなくても良いのだという安らぎで満たされており、罪を赦し、罪という言葉を消す神の懐に入れられています。

ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」

ヨハネは、自分の役割の範囲内ではありますが、イエスと同じように福音を告げ知らせた者なのです。福音は初め、〝世間では軽視されやすい荒れ野〟にいるヨハネと民衆に在りました。私たちはこのような環境でこのような役割を果たしたヨハネを軽視してはいけません。民衆は、荒れ野で語られるからこそヨハネの言葉を福音として受け取ったのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストによる「聖霊という消えることのない火による洗礼」を受け続けるためには、この荒れ野のヨハネによる洗礼が欠かせなかったのです。洗礼は印です。印がなくても、神は聖霊を世界に贈り、人々に贈り続けるでしょう。しかし、洗礼という印は、水に濡れて消えてしまうような印ではなく、肉への刻印であり、心への刻印であり、魂への刻印です。刻印には「イエス・キリスト」という文字が刻まれています。「イエス・キリスト」という刻印は、イエスが世界の救い主であると共に〝私自身〟の救い主であり、そのような存在を自分の内に受け入れたという証明となります。その刻印の溝から、新たな命の泉が私たちの意志・体・言葉となって溢れ出すのです。「何を守るよりも、自分の心を守れ。 そこに命の源がある。」(箴言四章二三節)、「あなた自身の井戸から水を汲み あなた自身の泉から湧く水を飲め。 その源は溢れ出て 広場に幾筋もの流れができるであろう。」(箴言五章一五~一六節)「自分の心」「あなた自身の井戸」「あなた自身の泉」に聖霊が宿り、そこから私たちを新たに生かし、自発的・解放的に創造する命の水が湧くのです。

負い目の認識から生まれる新たな関係性

ルカによる福音書 三章一〇~一四節〉

そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 

 「わたしたちはどうすればよいのですか」

多くの人がヨハネに尋ねてきます。悔い改めよと呼びかけるヨハネに対して、彼らは一人一人自分の立場における負い目・罪を感じ取ったのでしょう。ヨハネを通じてなされたこの民への呼びかけに対して何か負い目・罪を感じ取る者はとても感受性に満ちた者であり、自分が救われるために自分の意識を変えることができる者です。牧者の説教とはそのような純粋な感受性を持つ状態へと人々を導き得ます。彼らは牧者の立場に立っているヨハネに「どうすればよいのですか」と尋ね、牧者の立場にあるヨハネは具体的な答えを彼らに提示します。ヨハネは彼らの負い目を知っていた故に具体的な返答をすることができました。ヨハネは彼ら一人一人の立場と心痛を知っていたが故に、彼らに対して率直に答えることができたのです。心痛を知らない者、目の前で悩み苦しんでいる人に共感できない者が語ったところで彼らの心に変化は生じないでしょう。ここでのヨハネと群衆・徴税人・兵士との関係はキリスト教で言う説教する者と説教を聞く者との関係に似ています。ただヨハネが〝荒れ野〟から宣教をしているという点においては違うのですが、神の言葉を宣べ伝える立場に立っているという点においてはキリスト教の神父や牧師の立場に似ているものがあります。牧者は教会員一人一人の心を知っているとき、教会に導かれてくる一人一人の心の負い目・苦しみに共感している故に、説教における神の言葉が天上の理解できないような内容ではなく地上で理解され受け止められ得る言葉となるのです。

 自分の負い目に気づくことができたこの群衆・徴税人・兵士たちには聖なる霊が働いています。自分が法律では裁かれないが事実罪を犯しているということを認識した者は、神の言葉によって生命を得ます。彼らは心の中で「私はなんて罪深い人間なのだろう。私は罪に囚われていて、今後どのような生活をすればよいのか分からない」と思っています。しかし、ヨハネの呼びかけはただただ彼らを意気消沈させ失望させるためのものではなく、彼らに自分の負い目を確実に認識させ、これから具体的にどのような生き方をすればよいのかを提示するものなのです。自分の負い目を感じることのできた者は神の呼びかけによって生き方が変えられ得ます。彼らは自分がいかに罪深いかを知ることによって〝他者と共に生きる〟ことにおいて真剣になります。そして彼らは純粋に「変わりたい」「変わろう」と思い始めるのです。自分の不正に気づいた者は神の呼びかけがあれば自分がこれから成すことができる正にも気づくことができるでしょう。自分は悪人であることに気づいた者・自分がいかに小さい存在であるかに気づいた者は、「こんな私にもできることがあるのか。なんという恵み。私に人を愛することができる力が一欠けらでも神から与えられているということはなんという奇跡か!私は闇の中にいたが、光を放つことができる。」と思うことでしょう。彼らがこのように思うことによって、彼らの失望は希望に変わります。彼らの心それ自身に正があること、彼らの存在自体が神に愛されていることを知ったので、彼らは生きていく上での「神にありのままの全存在を愛されている自分を信じていいのだ」という土台を再構築し、喜びをもって〝他者と共に生きる生活〟へと聖霊の力によって背中を押される形で押し出されていきます。私たち人間は悪人でありながらも悪人ではない要素を心の隅に隠しています。神の言葉は、私たちのありのままの姿を白日の下に晒し、隅に追いやられていた悪人ではない要素を表出させ始めます。私たちは罪人であり小さな存在であるけれども、独りではありません。私たちには同じように「自分には負い目がある」と思っていてくれる仲間がいます。私たち罪人にとって、自分の負い目を認識してくれている者の存在は希望と力の源です。負い目を認識するという弱さの中に、神の聖なる力が生まれる源泉があるのです。ここでのヨハネと群衆・徴税人・兵士との間には、裁きではなく赦しがあり、亀裂ではなく平和があります。私たちは神の言葉において独りではありません。

 

悔い改めにふさわしい実

ルカによる福音書 三章七~九節〉

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 

 「我々の父はアブラハムだ」

この宣言は、創造主なる神を親とせず被造物であり一人の人間にすぎないアブラハムを親としようとする宣言であり、非常に危険な思想になり得ます。どのような意味で危険なのでしょうか。アブラハムを信仰の父として尊敬することは危険ではないでしょうが、次の点で危険になり得ます。それは、創造主ではなく被造物を崇めるという偶像礼拝に陥りかねないという点においてです。蝮の子なる我々人間は皆この「人間を祀り上げることによる偶像礼拝」に陥る可能性を持っています。創造主なる神は旧約時代にその感情を表してきたように、怒りを表現されます。神は怒っています。社会のこの偶像礼拝に対して酷く怒っています。なぜ神は偶像礼拝に対して怒るのか。それは、偶像礼拝によって、人間が「私たちには神など必要ない。私たちのこの世界は私たちで何とか処理できる。」と思い、罪人を礼拝することで罪人の配下になり、罪の自覚のないままに罪を無意識のうちに犯し続け、最終的には神が造り給うた尊い被造世界を破壊してしまうことに繋がるからです。だれも神の裁きの座から逃れることはできません。悔い改めたとされるキリスト者でさえも自分の知らないうちにこの世の不正の虜になり、この世界を無意識の内に破壊に導こうとする権力者・為政者に盲目的に服従することになり得るからです。しかし、ここで悲しい知らせがあります。それは、この世を無意識の内に破壊に導こうとする当の権力者たちもまた被抑圧者と同様に実は心貧しく、悲しみで満ちていることが多いということです。彼らの心もまた荒廃していることが多いのです。故に、私たち人間は実はみんなが抑圧者であると同時に被抑圧者であり得るのです。いかなる権力、地位、名声を手にしていようとも、それらに囚われてしまっているならば、彼らもまた不正の虜になり、不正によって抑圧されてしまっているということなのです。私たちはいつも被害者であると同時に加害者です。しかし、そのことに気づく故に、「皆が神の下では的外れな者であると同時に、神に憐れまれるべき者なのである」という認識に立つことができるのでないでしょうか。

神が造り給うた自然、大地、動物、空気、水、その他一切の被造物を壊す権威は、私たち人間には本当は与えられておらず、神だけが持つべき権威です。それにもかかわらず、人間は被造物を破壊します。破壊することによって、私たち人間は逆に被造物に破壊されます。良い実を結ばず、破壊の限りを尽くしてしまう全ての人間の根元に、神が作成した放射能・化学物質というような恐怖の〝斧〟が置かれているのです。私たちはこの世界を破壊することによって逆に「切り倒されて火に投げ込まれ」ます。そして、苦しみあえぐ。神が造り給うた世界を冒瀆したが故に、私たち人間は放射能に侵され、化学物質に侵され、軍事兵器に振り回されて、生きていくために必要な食物を自らの手で失い、自らの手で隣人を殺すに至ります。神は怒っています。悲しみをもって怒っています。どうしようもない的外れな人間を見て涙を流しているのです。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

神は的外れな人間を転換させようとします。人間ヨハネを通して悔い改めという転換を勧めるのです。神は私たち全ての罪人を懐に招こうとし、救いに与らせようとし、私たちの住む世界を救おうとされています。幸いなるかな、神はこの世界に救い主イエス・キリストをお与えになりました。そのことによって私たちの側にはいつもイエスがいてくださり、罪人の重荷を担ぎ、共に苦しみに与っていてくださるのです。そのことによって私たちは罪人でありながら、良い実を結むことができる能力を、神から与えられた賜物として一人一人が持つことができているのです。私たち人間には、この世界を救う一つの能力・悔い改めにふさわしい実が神から与えられました。それは、愛することです。隣人に共感する能力であり、この世界を搾取のない、戦争のない、蹂躙のない平和な世界に戻して神にお返ししようという信念です。私たちには希望が与えられています。それは、私たちの一切の罪のために死んでくださったイエス・キリストという希望であり、私たちの隣りにいつもいるために復活なさってくださったイエス・キリストの霊です。イエス・キリストはこの世界に今も認識され得る信仰であり、霊であり、存在です。この世界のただ中で、私たちが住む〝世界〟の苦しみを味わい、罪を犯してしまう私たち人間の弱さと罪悪感を知っていてくださいます。私たちは皮肉にも、私たち自らが犯す罪における苦しみによって悔い改めることが多いようです。そして、そのことで新たに創造されます。私たちはその時、悪い実を結びながらも良い実を結ぶ者へと造り変えられていくのです。神は全ての人間を招き、悔い改めを勧め、良い実を結ぶようになるために新たに創造し、私たちが、私たちの自らの労苦によって生み出した「悔い改めにふさわしい実」によって喜びを得ることができるようにしてくださいます。そして世界に「良い実」が生まれるのです。

主の道

ルカによる福音書 三章四~六節〉

これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、

 その道筋をまっすぐにせよ。

 谷はすべて埋められ、

 山と丘はみな低くされる。

 曲がった道はまっすぐに、

 でこぼこの道は平らになり、

 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

 ここで取り上げられている箇所はイザヤ書四〇章三~五節であり、実際に調べてみると元の文からは少し趣が異なる印象が与えられるでしょうが、ここではルカによる福音書の記者が記載したままの文章から考えてみることとします。恐らくルカによる福音書の記者は、自分の人生を通して、イザヤ書の言葉をこのように感じ取り、私訳したと思われます。(ちなみに元の文は以下の通りです。「呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」(イザヤ書四〇章三~五節))

 ここでは主の道について表現されており、主の道、つまりイエス・キリストが通る道、イエス・キリストが生きていく道はどのような道であるのかということを言おうとし、それは主なる神からの人間への歩み寄りの道であることを意味すると考えることができます。神から人間への歩み寄りの道であると書きましたが、人間から神への歩み寄りの道でもあるのではないかと考える人もいるでしょう。このことはとても難しい問題であり、すぐには答えを出すことはできない問題であり、各人がイエス・キリストを信じて生きていく中で悟っていくことでもあるでしょうが、敢えてここで言うとするならば、主の道とは神から人間への歩み寄りの道でもあり、人間から神への歩み寄りの道でもあるという両面性を備えているということです。そして「まっすぐにせよ。」という命令形で表されていますが、実は神は確実にまっすぐにするのであり、「まっすぐにせよ。」という言葉にはそれほど命令的な要素は含まれていないのであり、命令というよりもむしろ宣言であり約束です。イエス・キリストによる人間の救済への道は、ヨハネによってまっすぐに整えられました。洗礼という悔い改めが示されることで、道が現れたのです。悔い改めの洗礼そのものが道になるのです。洗礼を受けた者の道はまっすぐにされます。本人が「いや、全然まっすぐではなく、むしろ洗礼を受ける前よりも酷い道だ」と思おうが、事実まっすぐなのです。

 「谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。」

このことは、精神的にも社会的にも谷のような所に身を置いている者たちの歩む道の地盤がしっかり整備され、精神的にも社会的にも高慢になりやすい立場の者たちは神の御心に適った正しい位置に引き戻されるということを意味すると捉えることができるのではないでしょうか。谷に身を置いている者の道は、今日の時代で考えても、とても苦しい道でありましょう。精神的にも追いつめられやすく、抑圧されやすく、外にはじき出されやすく、世間から蔑ろにされやすく、その結果、谷という日の当たりにくい暗い隅の場所に住まわざるを得ないという状況です。しかし、谷はすべて埋められるのです。何によって埋められるのでしょうか。それは山と丘が低くされることによってです。山と丘が低くされようとするときに削り取られる土が谷を埋めるのです。つまり、土に含まれていた、土を維持するために使用されていたエネルギー、人間の労働力、精神力、知識、お金などのあらゆるものが谷を埋めるという目的のため、谷に住む人間の尊厳・命を大切にするために神によって使用されるのです。決して山が更に高い山になるために使用されるのでも、丘という社会的中間者がより金銭的な意味における裕福な環境に身を置くために使用されるのでもありません。谷を埋めるという目的のために山や丘の土が使用されるとき、山に住む人、丘に住む人は「幸せであるとは本当はどういうことなのか」ということを考えざるを得ず、山や丘に住んでいるだけでは感じ取れなかったものを感じることができるようになり、いつも心の中で感じざるを得なかった虚しさ、または自分の思考の基盤を成している幻想から解放され、自分たちだけではなく、「隣人」が幸せに暮らすにはどうしたら良いのかを考えるようになります。「神の救いを仰ぎ見る」のは、特定の人間、つまり山に住む人間だけでもなく、丘に住む人間だけでもなく、谷に住む人間だけでもなく、「全ての隣人」、「全ての他者」なのです。隣人が幸せにならなければ、神の救いが実現したことにはならず、神の救いが谷に住む人にも丘に住む人にも山に住む人にももたらされる救いであるということに気づかなければ、神の救いの真実を知ったことにはならないでしょう。

 「曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、」

イエス・キリストの救いは既に完成しています。(完成しているというと、それではなぜまだ人間は苦しみに満ち、世界は混乱に満ちているのかという問いが生じますが、違う表現をすると、〝神からの人間への歩み寄り〟が完成していると言った方が分かりやすいでしょう。)この救いは先ほど言ったように、全ての隣人、全ての他者、更に言えば全ての被造物における救いです。特定の人間のみが幸せになるという考えに固執していると、人間の心は曲がり、世界は歪み、でこぼこの世界となり、どこが右で左で、どこが上で下なのかが分からなくなるのではないかと私は思うのです。人間は罪を犯す生物なので、世界は現に曲がっており、でこぼこしていますが、イエス・キリストの歩み寄りという救いは世界をでこぼこにするその罪人に対して完成しているのです。洗礼者ヨハネはこの救いの完成のための主の道を整えるために、悔い改めの洗礼を行ったのです。

主の道は、人々を「個人のみの幸せ」から解放し、自分も含めた「隣人の幸せ」へと至らせる転換の道となります。悔い改めという転換については前回の黙想でも記しましたが、このような転換をも意味するのです。つまり人間は、自分のみの幸せを考えることから解放され、自分も含めた「隣人」の幸せを考え始めるとき、イエス・キリストがなぜ福音書に記されているような生き方をしたのかが理解できるようになり、イエス・キリストの十字架へと至る生き様、十字架上での死に様、復活という言葉で表される十字架の死からの解放が、この混乱に満ちた時代に対してどのような意味を持つのかを、自分の人生をもって、自分の目に見える現実世界をもって知るようになっていくでしょう。神の人間への歩み寄りの道は洗礼者ヨハネによって整えられ、イエス・キリストの存在によって完成しました。主の道は、人間の思考回路を、「一人」から「隣人」へと変化させる道となるでしょう。