always_with_3’s blog

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

2017/10/22の思い

キリスト教に対する悔しさ、羨ましさ、後悔、妬み、憧れ。

 

これら一切の感情にケリをつけるべきか、それともその感情から逃げないで向き合うべきか、とにかく私は今、自分がすべき仕事の一つ一つをやっていくことが大事であることを知っている、しかし、本当に生きていくためには、本当に自分のために生きていくためには、そして本当に世の中のために生きていくためには、私はこれらの感情から逃げてはいけない。

 

ああ、複雑すぎる我が心よ、複雑怪奇な我が人生よ、お前は何がしたいのか。

 

神様、あなたは嘲笑っているでしょうか。この私を嘲笑い、蔑んでいるのでしょうか。あなたはそういう方です。しかし、あなたがそういう方であったとしても、私はあなたの愛情を信じることにします。

マリアの賛歌

ルカによる福音書 一章四六~五六節〉

そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 

 マリア(を代表とする神を信じる者)は神を讃美します。全身全霊をもって彼女は神を讃美します。神の奇跡の御業が、その時その瞬間に事実起こっていたのですから、彼女は神を讃美せざるを得ない心境にあったのです。このとき、マリアには、「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」と言える権利が与えられたのです。マリアは知っていました。この神の選びが、まさしく〝神の〟選びであることを。〝人間の〟選び、つまり人間側の行いによる選びではなく、神による一方的な選びであるということを。「知っていた」というような、頭で考え捉えられるものというよりもむしろ、自らの存在をかけた感情的・理性的実感であると同時に、聖霊の働きによる聖なる霊感とも言えましょう。マリアを代表とするイスラエルの民は、自らの存在という全身全霊をかけて、この「マリアの賛歌」のように実感せざるを得ないような歩み・歴史をこれまで送って来たのではないでしょうか。この「マリアの賛歌」は、毎日一語一句間違えずに形式的に唱える文言のような言葉ではなく、神の奇跡の実在に対する溢れんばかりの魂からの色鮮やかな、しかし同時に、切実な叫びなのです。讃美とはそもそもそのようなものではないでしょうか。つまり、讃美とは、〈人間が作り出したと錯覚している幻想なる偶像〉から生まれるものではなく、「全ての被造物、空、大地、海、動植物は、神の御業によって造り出された恵みである」という気づきによって、そして、神の御手の中に自分の身を置くことによって、〝自然と〟自発的に溢れ出るように生まれる言葉なのではないかということです。神の御手の中に自分の身を置くとは、神の恵みの中に自分が既に入っていたということに気づくことから生じる感謝を表現している状態でしょう。
 「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」
マリアは自分が星々の間の暗闇の中にいることを知っていて、自分の力ではどうしてもその暗闇から脱け出すことができないことも知っていたのでしょう。それ故の、この言葉なのです。しかし、神はそのようなマリアに目を留めます。神は、星々の間の暗闇、山々の間の谷間の隅の中からでも、マリアを、そしてイスラエルの民を探し出すことができる御方なのです。
〈オバデヤ書二~四節〉
見よ、私はお前を
諸国のうちで最も小さいものとする。
お前は大いに侮られる。
お前は自分の傲慢な心に欺かれている。
岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け
『誰がわたしを地に引きずり降ろせるか』と
心に思っている。
たとえ、お前が鷲のように高く昇り
星の間に巣を作っても
わたしは、そこからお前を引き降ろすと
主は言われる。
傲慢なる者に対してこの御言葉が実現されるならば、自らのことを「主のはしため」と言うマリアを神は見つけず祝福されないということがありましょうか。まさに、「神が選んだ」としか言い様がないことなのです。「その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。」、ここでマリアは確信しています。神の憐れみが限りなく確実に「主を畏れる者」に及ぶということを。この確信は大きい!人間にとって、主を畏れる者に神の憐れみが本当に在る、または実際に神に憐れまれているということを確信することは本当に大きな気づきであり、深い慰めとなるでしょう。この気づきは神の御名が尊いのと同様に尊いことです。神の選びは人間を確信に至らせます。その確信は、まるで新しい井戸を発見し開拓した喜びと共に、そこから湧き出る水のごとく、溢れ出るような讃美の思いへと変わっていく・・・。
 「主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、・飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。」
ここでマリアは、なんと具体的なことを言っているのでしょうか。むしろ、このような具体的過ぎる内容をマリアが言った可能性があるということ自体が驚きです。ルカによる福音書の記者がいた当時のユダヤ社会は、このような〝代表としてのマリア〟の言葉・〝マリアの賛歌〟を必要とするほど困窮し、虐げられていたのでしょうか。なぜ〝代表としてのマリア〟はこのような言葉を発するに至ったのか、私は考えざるを得ません。現代社会でも、この言葉は非常に必要とされている励ましの言葉になり得るでしょう。マクロな範囲でもミクロな範囲でも、実際に搾取され、抑圧され、物理的な飢え・精神的な飢えを経験している人々は、恵まれた私には気づきにくいだけで、実際はこの世の中に非常に多くいるのでしょうから。――自分がこの世界に抑圧されている存在であることに気づくことは幸いなるかな。全ての人間は実は被抑圧状態にあり、そのことに気づくか気づかないかによって悔い改めによる方向転換が、具体的な自らの人生における現実になるかどうかが決まるでしょう。そして、何に抑圧されているかを明確に知る者は幸いなるかな。その者は何に抵抗すれば良いかを見出すことができ、幻想ではなく真実の新たな喜びと真実の新たな悲しみに与ることができるでしょう。――「わたしたちの先祖におっしゃったとおり」とあるように、旧約の時代、イスラエルの民には、何度も何度も、貧しい者、飢えている者、寄留者、孤児、寡婦というような小さくされた者、低みを生きる者を大切にするようにと主は言われて来ました。(出エジプト記二二章二〇~二六節、申命記一四章二八~二九節、詩編一一三編五~八節、イザヤ書二六章五~六節・五八章六~七節と一〇節、上げればきりがありません。)その旧約の御言葉たちが、まさにマリアの胎に集い、イエス・キリストという目に見える肉の形に造り変わって姿を現わそうとしているのです。神はイエス・キリストの存在によって僕イスラエルを再度受け入れ給う。マリアは願いを込めて最後に言います。その旧約の時代から語り継がれて来た御言葉が「アブラハムとその子孫に対してとこしえに」ありますように、と。
 マリアは、神への讃美の思いに満たされ、エリサベトという尊い信仰の姉妹との時間を過ごし、自分の家に帰って行きました。まるで、歴史上最初の〝イエス・キリストを中心とした信徒の交わり〟を終えて、この世に派遣されるかのように。

良き知らせの分かち合い

ルカによる福音書 一章三九~四五節〉

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 

 マリアがエリサベトに会いに行き、彼らは出会いました。マリアが胎に主イエス・キリストを携えるという形で彼らは出会いました。そこには、確実にマリアの胎にいるという身体的形をとって、主イエス・キリストが共存共生しています。エリサベトの胎内の子、つまりヨハネは踊り、エリサベトは聖霊に満たされ、そして、ここに居たマリア、エリサベト、ヨハネの三者は、主イエス・キリストと、具体的に同じ時を共有しました。三者は共に、主が生まれることを心から喜び、その喜びを分かち合っています。私たちが想像する以上に、この出来事、つまり三者の喜びの分かち合いというものは、通常では考えられないものであったでしょう。そこには主イエス・キリストがいて、エリサベトの口を通してイエスが「主」であることが語られているのですから。イエスが「主」であるということは、当時の社会では容認されないことであったでしょうが、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言」いました、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と。
マリアが急いでエリサベトに会いに行ったように、私たちもまた、子が生まれるということを通して与えられる、言葉では言い表せないほどの喜び、そして神への感謝を、他の人々と共有しようとします。子が生まれるという喜びは、個人で占有したいほどの清い喜びでしょうが、個人では所有しきれないほどの大いなる喜びである故に、個人から溢れ出て「他の人々と分かち合われる」という、他の人との新たな低みにおける出会いへと導く性質を持っているのではないでしょうか。マリアが神の子イエス・キリストを宿すという出来事は、現代社会を生きる私たちの生活には一致しない出来事でありますが、私たちが神を信じているならば、私たちの間に生まれる子が、神から授けられた尊い神の子のように感じられるでしょうし、事実、神が与え給うた・創造し給うたという意味で神の子でありましょう。子が生まれるという出来事は、神が私たちに神の子イエス・キリストを一方的に与えたということの比喩でもあり、神がこの世を愛していることの印でもあります。なので、大袈裟かもしれませんが、子が生まれるという出来事は、神の姿を見るごとく尊く聖なる出来事なのだと私は思います。しかし、現実はその聖なる子の命が人間社会に住み着く悪魔によって奪われるという自体が起こっているのです。幼子は殉教者になりやすいのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 エリサベトはここでは、ただただ自分たちの身に起こった奇跡に関してマリアと喜び分かち合おうという気持ちでこの言葉を発したのかもしれませんが、この言葉自体には深い喜びに満ちた悟りのようなものが含まれているのではないでしょうか。物理的な飢え、精神的な飢えの在る今の世の中で(いつの世でもそうでありましょうが)、神様が聖書を通じて語ってくださる、
① 聖なる公同の教会・・・イエス・キリストの生と死と復活における聖なる(低みの)福音を受け継ぎ、かつ、公にその福音を探し求め、実現しようとする共同体
② 聖徒の交わり・・・神の子の資格を受けた者が神の御許で互いの聖霊(低みにおける霊)を分かち合うこと
③ 罪の赦し・・・罪(高み)の奴隷からの脱出と、罪(高み)の責めからの解放、つまり、ありのままで存在が赦されているということ
④ 身体のよみがえり・・・神を信仰する者、讃美する者、この世界に平和を造り出す者、低みを認識する者へと具体的に造り変えられ、人生に対する認識が変化すること
⑤ 永遠の生命・・・この世の具体的な苦しみと権力による抑圧から自由になることによる聖霊なる生命、無償に愛された者としての新たな生命
というような福音を信じること、そして、それらのことが具体的に「実現する」と信じることは、なかなか難しいことなのかもしれません。しかし、だからこそのこの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」に重みと深みが加わるのではないでしょうか。「必ず実現する」であろう福音、そして現に実現されている福音を信じることができる者のなんと心安らかなことでしょう。なんと希望に満ちていることでしょう。福音を信じる者は、事実「幸い」なのです。その者の心には、ほっとした温かく柔らかな霊が満ちます。この世のただ中、つまり、不正なる行為に満ちた現実のただ中で、自分を偽ることによってしか生きることができないこの世界のただ中で、「主がおっしゃったこと」、つまり神の言葉・福音を信じる者は、偽る必要のない幸いを感じることでしょう。

2017/10/12の祈り

神よ

 

久しぶりに文章としてあなたに祈ります。

 

私を憐れんでください。

 

この弱き私

この罪深き私

心の病を負っている私を

 

どうかお守りください。

 

そして、他者を通じてお救いください。

 

他者の存在を通して与えられるあなたの赦しは、私の恐れを簡単に超え、清めます。

 

天地の神様

イエス・キリストの親なる神様

 

私に共感してください。そして私も他者の苦しみに、他者のこころに共感できるようになれますように。

 

今日の悩みはそんなに大きなことでしょうか。これまでも乗り越えて来た単純で簡単なものではないでしょうか。それなのに、私は何故こんなに苦しんでしまうのでしょう。

 

 

あなたは讃美されるべきかな。

 

あなたが居たから、私はある。

あなたが居るから、私は生きる。

あなたの存在は私を勇気付け、励まし、恐れる心から救ってくださる。

 

この仕事への苦しみが

全て喜びに変わりますように。

 

主イエスの御名によって、アーメン。

 

できることを

できることをしなさい

 

できないことはしなければよろしい。

 

できることとは何か。

 

それは自分の目の前にあることである。

 

これまで自分がやってきたことは

できることである。

 

今自分がやっていることは

できることである。

 

未来という不確かさの中に

可能性を見出す前に

 

過去と現在に見出せる可能性から

できることを再発見し、

 

それを実行しなさい。

 

そうすれば、

 

なんの無理もなく

なんの不安もなく

 

できることが

積み重なっていく。

 

鬱はその前にも後にも来るが、

鬱の中に見出せた可能性さえも

 

利用しなさい。

 

それは土台を固める要素になるのだから。

 

 

楽しく生きる

楽しく生きるって

 

難しいし

 

分からない。

 

どうすれば楽しく面白い

 

人生を送れるのか。