タローのブログ

メンタル弱すぎキリスト者の徒然なるままの黙想

死ぬべきか

今日は非常にナイーブな日で

死ぬべきだ とばかり考える。

私は死ぬべきなんだ。

死に値する。

赦されない。

存在が赦されない。

生きていることが赦されない。

生きてるだけで人に迷惑と面倒と

苦しみを与える。

こんな人間、もう居なくなった方が

世の中のためだろ。

イエスの系図

ルカによる福音書 三章二三~三八節〉

エスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

 

 新共同訳聖書では「イエスの系図」と題して、「イエス、洗礼を受ける」と次の四章の「誘惑を受ける」の間に、この系図の文が挿入されています。三章の初めから見ますと、ヨルダン川という荒れ野でのヨハネによる洗礼から始まり、イエスの受洗があり、この系図を飛ばして四章の初めの一節を見ると、「さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。」と書いてあり、イエスヨルダン川ヨハネから洗礼を受けたことが四章に繋がっていることが分かります。ルカによる福音書の記者がどのような意図をもって、このような書き方をしたかは定かではありませんが、イエスの受洗から誘惑を受けることに直接繋げることはせず、一端ここでイエスの系図を挿入することで一区切りを付けようとしているようにも考えられます。つまり、「イエスの受洗」を一区切りとして描こうとしているのではないかということです。

 イエスが受洗した年齢は明確には記されていませんが、あくまでルカによる福音書からの推測ですが、三章から四章への流れ、つまり、洗礼を受けてからガリラヤで伝道を始める間を考えると、洗礼を受けたのは二五~三〇歳辺りであったのではないかと私は勝手に思っています。どこから宣教が始まったと捉えるべきなのかは定かではないですが、――もしかしたらイエスが悪魔から誘惑を受ける所を、「イエスの悪魔に対する宣教」と捉える人もいるかもしれません。――恐らく四章一四節でのガリラヤでの伝道からを宣教と捉えるのが妥当でしょう。イエスは三〇歳で、ガリラヤから宣教を始めました。イエスは三〇歳という年齢で宣教の〝時〟が満ちたのです。この〝時〟については四章一四~一五節の所で詳しく書くことになるでしょう。

 さて、改めて系図に着目してみます。ここには多くの人々の名前が記されています。アダムの時代やアブラハムの時代の年齢の数え方がどのようなものであったのかは分かりませんし、アダムが本当に存在したのかは分かりませんが、ここではそのような疑問はあまり意味を為さないように思えます。問題なのは、イエスはアダムから連綿と繋がって来た「人間の子」でありながら、神がこの世に贈り給うた唯一の救い主、「神の子」であるという点です。イエスは、旧約時代の長い長い歴史を通して、一人一人の深く複雑な人生の積み重ねを通して、この地に生まれました。救い主なるイエスの誕生までには多くの人間の苦しみ、悲しみ、抑圧、差別、殺人、そして戦争があり、それと同時に多くの神の御業が、癒しや慰め、解放や受容、生きる喜びの贈与、そして平和という形で歴史を支え導いてきたことが伺えます。アダムからヨセフに至るまで、神は罪深い人類の地を完全に絶やすことは決してなさいませんでした。ここで救い主イエスが誕生するからです。アダムからヨセフまでの罪深い人類の歴史に、神はここで一線を引きました。アダムで終わらず「神に至る」唯一の人間、人間でありながら神から生まれた人間、人間でありながら唯一「神の子、キリスト」と名乗ることを赦された一人の人間イエスの誕生によって、神は、人類の罪の歴史と人類によって苦しめられてきた被造世界の歴史に、罪を贖う一つの大いなる雫を投じました。

 イエスは洗礼を受け、祈り、聖霊を受け、神から言葉を授かりました。このことにしっかり注目するために、記者は「神に至る」までの系図を、敢えてここで、はっきりと示しておきたかったのではないでしょうか。聖霊を受け、明確に神から「あなたはわたしの愛する子」という言葉を貰ったことで、記者も、系図を挿入することを通して、イエスが神の子であることを再確認しているように思われます。イエスが私たちと同じ、弱く罪深い限界を持つ人間の姿をとっていることを示すと共に、神によって贈られた、罪を贖う人類の救い主であることをこのイエスの系図が示していると捉えると、この系図は、三章の終わりとして、読者への相応しい提供となるのではないでしょうか。

イエス、洗礼を受け、祈る。

ルカによる福音書 三章二一~二二節〉

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

このとき民衆とイエスが受けた洗礼は、ヨハネによる悔い改めの洗礼であろうと思われます。このことはマタイによる福音書三章一三~一七節で詳しく記述されていますがルカによる福音書からずれてしまうので、ここではその箇所については触れません。ルカによる福音書の記者がこの三章二一~二二節でヨハネの名前を一言も出さなかった理由は分かりませんが、三章の一~二〇節の所で既にヨハネの悔い改めの洗礼について詳しく書いておきましたので、その話の続きである今回の節では敢えてヨハネの名前を出す必要はないと考えたのではないかとも考えられます。

 この箇所から感じられることは、イエスは他の民衆と〝同じように〟悔い改めの洗礼を受けておられたということです。イエスは、唯一の神の子、肉体を持った神の子でありながら、他の民衆と〝同じように〟一人の〝人間〟として悔い改めの洗礼を受けたのではないかと推察できます。イエスは決して、「自分には洗礼なんて必要ない。悔い改めの洗礼を受けるまでもなく、私は既に唯一の神の子なのだから、このまま宣教を始める。」とは思っていなかったでしょう。イエスはこれから自分が福音を始める際の転換点として、今一度自分自身の存在の意味を確認するために、ここで他の民衆と同じように〝荒れ野〟にいるヨハネから他の民衆と同じ視点に立って――いや、生まれてこの方その視点で生きてきたのではないでしょうか――洗礼を受けようと思ったのではないでしょうか。荒れ野のヨハネの洗礼を受けに来た民衆の多くは罪を自覚していた人たちであり、これからどのような道を歩めばよいか分からない人たちであり、その中には経済的に貧しい人もいたでしょうし、家庭内の問題で悩んでいた人たちもいたでしょうし、世間から罪人として判子を押され差別されていた人たちもいたでしょうし、希死念慮に陥っていた人もいたかもしれません。イエスは、そのような民衆のただ中にいて、自分がこれから進むべき道を再確認していたのではないでしょうか。つまり、弱くされ、小さくされ、差別され、自分の罪で苦しんでいる人たちと共に生きる道を歩む決意としても、イエスは洗礼を受けたのではないかということです。

 イエスは洗礼を受けた後、そのような民衆のことを思いながら神に祈り、神に尋ねました。「私はこれからあなたの僕として、この体をもって、この生き方をもって福音を伝えていこうとしています。神よ、父よ、私の道をお守りください」、イエスはもしかしたらこのように祈ったかもしれません。イエスは自分が十字架で死ぬ道を歩むことを恐らく無意識のうちに予期していました。その十字架への道の出発のための準備として、心を整えるためにイエスは神に祈り尋ねたのでしょう。イエスの決意、イエスの覚悟は大いなるものです――いや、真実には、イエスは決意や覚悟をする以前に既にイエスご自身が十字架そのもので在られ給うた――。当時のユダヤ社会の根底を覆す生き方、律法によって縛られていた者たちを解放するための生き方、この世界にいる全ての人間の罪をわが身に負って死ぬ生き方を、イエスはこのとき始めようとしていたのです――本当は初めからそう生きておられた――。

 私たちも、何かしら覚悟を持って歩みを進めなくてはいけないときが来るかもしれません。(しかし、覚悟できない者は既に覚悟している。)そのとき私たちは、イエスがここで祈ったように神に祈ることが大切になってくるのではないでしょうか。イエスがどのように祈ったかは具体的に書かれてはいませんが、イエスは神に祈り、神に尋ね、神に道を委ねようとしています。祈りとは〈「自分の道を神へ委譲する心」を整える作業〉になり得ます。イエスは祈る姿をもって私たちに祈ることの大切さを伝えています。このイエスの祈る姿は、神に祈ることによって自分の道を神に明け渡すことの大切さを私たちに伝えています。(先ほど、「イエスの決意、イエスの覚悟は大いなるものである。」と言いましたが、決意や覚悟に大きい小さいもなく、重圧や責任も必要ありません。ただただ神に委ねるのみなのです。祈りに込める決意、覚悟、苦しみなどの思いが私たちの心にのみ留まってしまったならば、私たちは重圧とこの世的責任感によって押しつぶされ、この世の奴隷となってしまう可能性がありますが、神への委譲としての祈りによって私たちは重荷を神に委ね、明け渡すことができます。)

 神はこのイエスの祈りに応えました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、これがイエスの祈りに対する神の返事です。神はイエスを安心させ、勇気づけようとしているのではないでしょうか。神はこの言葉に、「イエス、愛する我が子よ、私はお前を心から愛している。お前の存在を心から喜んでいる。私はお前を愛し、お前の全てを知っている。お前がこれから苦しんでいる人々と共に生きようとしているように、私もいつもお前を見守っている。だから安心して進みなさい。お前の体は私の体、お前の道は私の道なのだ。強く雄々しく在りなさい」、というような思いを込めていたかもしれません。イエスヨハネの水による洗礼の後、〝祈ることによって〟聖霊による洗礼を神から受けました。

 祈りが天を開きました。祈りが天の国の扉を開ける鍵となり、天の国にいます神と応答することを可能にしました。天は祈りによって開拓されるのです。私たちは、イエスがここで神様から言葉を授かったように、祈りによる開拓の道を通して神の言葉を貰い受けていきます。祈りは聖書の御言葉の扉を開き、祈りは天を開き、天と地の間にある分厚い壁を砕き、私たちが住むこの被造世界に神の言葉を降らせます。祈りは私たちが生きる現実のただ中に天を呼び起こし、祈る一人一人にそれぞれが歩むべき天の道、現実を生きたイエス・キリストの道を指し示します。